食養内科

6 「不治の病」から回復

 茂在寅男という人が、東京新聞の「この道」という連載文の中で、自分の病気について書いておられました。内容に感動するところがあり、その部分を切り抜いて取っておきました。その文章を紹介します。
 茂在氏は東京商船大名誉教授です。私は茂在氏のことは知らないのですが、調べてみるとちょっと変った人です。大正3年の生まれです。寅の年の寅の日の寅の時刻に生まれたそうです。
 著書は学術的な物から航海術の歴史などあります。小説も書き、作詞もしています。小説は映画になったそうです。
水中考古学(海洋考古学)の開発を行い、長崎県北松浦郡鷹島町で元寇の遺物を発見しています。又、遣唐使船の復原は茂在氏の設計図を元に制作されたそうです。

第56回(平成15年7月15日) 
 紫外線
 昭和15(1940)年4月、私は三重県鳥羽町(今の鳥羽市)鳥羽商船学校に赴任した。すばらしい自然環境のせいか体調は日ごとに回復していった。
 独身なので時間はたっぷりある。そのため、生徒たちとの交わりは濃密なものになった。航海術の授業をはじめ、授業の一環としての水泳訓練にしても、錦浦(にしきうら)から伊勢湾へのセーリング(帆走訓練)にしても、放課後のテニスにしても、自分自身が鍛えに鍛え抜いたものを若い生徒たちに教えるのであるから大いに張り切り、楽しさも格別であった。
 さて、今でこそ紫外線を避けることは健康上の常識になっているが、当時は太陽光線で全身の皮膚を焼くこといかに体に良いかが喧伝(けんでん)されていた。私は海水浴場へ出かけ、砂浜に大の字になって長時間太陽光線を浴び、より健康への道を目指した。
 ところが夏休みの直前、いつものように海水浴場での日光浴を終えて下宿に帰った私は、妙な咳(せき)が出るのに気付いた「風邪をひいたわけででもないのに」と、にわかに不安にかられた。そして、洗面所で大喀血(かっけつ)したのである。紫外線を浴び過ぎたからか。
 喀血は初めての経験だった。洗面器いっぱいの真っ赤な血を見て、私は震え上がった。直ちに宇治仙田市(今の伊勢市)の日赤病院に入院した。
 不幸中の幸いというべきか、その数日後から、学校は約五十日間の夏休みに入った。したがって他人にあまり知られることなく療養生活を続けることができた。夏休みが終わった時点で一応退院して登校。学校当局と打ち合わせた結果、しばらく欠勤させていただき、故郷の茨城県北条町(今のつくば市)へ帰ることにした。故郷には温かく迎えてくれる家族と、子供の時から私の体を診てくれた医者がいるからであった。
 私は自分の病気を、結核であろうと見立てていた。当時肺結核は「不治の病」といわれていた。
 しかし、病院が下した診断は「非開放性の肺浸潤」だった。「痰(たん)などの分泌物から結核菌が発見されないのを非開放性と呼び、この場合は肺結核とはいわない」と医者は説明してくれた。
 一応納得したものの、痰を吐き出すたびに血が混じっているのを目にし、「これは容易ではない」と思うのは当然であった。

第57回(平成15年7月16日)
 東洋医術
 昭和15(1940)年の夏休み直前に大喀血(かっけつ)して以来、何度か小喀血があり、血痰(けったん)も依然として続いていた。一応の小康は得たものの、食欲はなく、体力は相当衰えていた。日赤病院の主治医も必ずしも楽観していない様子で、帰郷して療養したいと希望したら賛成してくれた。
 懐かしの故郷、筑被山麓(さんろく)の茨城県北条町(現つくば市)へ帰れば体は必ず回復するだろうと、ひそかに私は期待した。しかし確たる見通しがあるわけではなく、不安を抱いての帰郷だった。
 家族の温かい歓迎や、幼少のころから面倒を見ていただいた医師による治療。すべては順調に進んでいるように見えたが、私を診断した医師は必ずしも明るい様子ではなかった。
 二度目の診察を受けた後、母のしぐさがどことなく妙であることに気が付いた。陰でそっと涙を拭(ふ)いたような感じに見えたのである。
 私は、医師が何と言っていたかを母に尋ねた。母はこれには答えなかった。私はある程度の予想をしていたので「病気は治らないと言ったんでしょう」と重ねて尋ねたところ、黙ってうなずいた。さらに「『あと半年くらいしかもたない』って言ってなかった?」とかまをかけたら、また黙ってうなずいた。「やはりそうだったのか」と私は納得した。
 当時は「肺病は不治の病」が常識であった。私は上半身裸になり、大鏡に向かった。痩(や)せ衰え、肋骨(ろっこつ)がゴツゴツと浮き出ていた。手を広げて胸に当て、肋骨と肋骨の間に一本ずつ指を置いてみたら、ようやく表面が平らになった。
私は、まる一日瞑想(めいそう)した。今振り返ると、あの瞑想で得た結論により蘇生(そせい)できたと言ってもいいように思う。
 「西洋医術では不治」と診断された以上、溺(おぼ)れる者藁(わら)をもつかむで、この機会に東洋医術を研究してみよう、というのが、その結論である。東洋医術に関心は持っていたが、もちろん深く研究したことなどはなかった。
 体が弱ったとはいえ、読書する力くらいは十分ある。私は東洋医術についての書籍を何冊も購入し、枕元に積み上げた。寝床の中で読書をするために読書台も手に入れた。そして「俺(おれ)はこの病に勝ってみせるぞ!」と決心した。

第58回(7月17日)
 消耗病
 東洋医術に関する書籍を枕元に積み上げ、私は片っ端から読みまくった。その中に「療養新道」という本があった。
 後日、ある病人に貸したところ行先不明になってしまい、著者名も出版社名も思い出せないのが残念だが、この本は本当にためになった。
 さて、その「療養新道」に白隠禅師のことが出ていた。恐らく肺病と思われる重病にかかった自隠禅師が山中に入り、座禅を組んで安静を保ち、自然生活を続け、健康を取り戻したというのである。
 薬にたよるのでなく、精神的な修業を中心とした療養法は、「現在の医学では全治の希望は持てない」と宣言された私には非常に魅力的であった。
 さらに別な本により、肺病は英語で「コンサンプション(消耗病)」と呼ばれていることを知った。
 この病気にかかるといつの間にか体力が消耗してしまい、やがて死に至るという意味である。
 一応小康を得て日赤病院を退院したことにはなっている私だが、僅かの期問中に何度も喀血(かっけつ)があり、血淡(けったん)も消えることがなかった。
 健康時、十四貫半(約五四キロ〉あった体重は十一貫(約四〇キロ)にまで減っていた。私は消耗の一途をたどっていることを知り、「闘病に取り組まなければ」と一層強く思った。昭和15(1940)年12月発行の東京高等商船学校の同級生会誌「黒潮」に、私は次のように記している。
「病気…こんないやなものが世の中に又(また)とあろうか。呼吸器の病は実に根強いのに驚かされる。この病に打ち勝つためには、更に更に根強い人間にならなければならない。この意味で、病気は実に偉大なる修養だ…」
 「闘病生活を」始めた私は、むしろ「修養生活」に入った気持ちであった。当時の肺病は「不治の病」と言われていた。私が知る限り、この病気にかかった人が病気から立ち直り、健康になったケースはほとんどなかった。ましてや私のように症状が重い人の場合はなおさらであった。
 しかしながら、私は回復に成功した。どのようにして健康をとりもどしたのか、次回で少々触れさせていただこう。

第59回(平成15年7月18日)
 快食法
 肺の病が英語で「コンサンプション(消耗病)」と呼ばれていることを知った私は、体力の消耗を食い止め、増強へと転換させなければならないと考えた。毎週末に体重を測定して一週問ごとの体重の変化をチェックし、絶対にマイナスにならないよう努めなければならなかった。
 私は食欲不振に陥っていた。母は、おいしく食べられるよう工夫して食事を作ってくれたのだが、なかなか手を出す気持ちになれなかった。
 さらに、睡眠の問題でも悩んでいた。常に頭の中を雑念が去来し、気持ちがイライして熟睡できないのである。食欲と睡眠の二つは、健康回復のためぜひとも克服しなければならない喫緊の課題だった。
 病床で読んだ療養指導書「療養新道」を参考に、私は独自の「快食法」を編みだした。
 食欲があろうがなかろうが、とにかく一口分のご飯とおかずを口に入れて噛(か)み続ける。絶対にのみ込まず、ただただ咀嚼(そしゃく)するのである。
 そうしていると、口の中のご飯が甘くなってくる。そして、のみ込まないのに、いつの間にか口の中の食べ物がなくなってしまう。再びご飯とおかずを口に入れ、また根気よく噛み始める。
 このようにして茶碗(ちゃわん)一杯のご飯を食べるのに大体三十分から四十五分はかかる。味噌(みそ)汁も飲むが、その中の具は必ず前述の咀嚼方法で食べる。
 一回の食事に要する時間は二時間ほどだろうか。読書しながらでも、ラジオを聴きながらでも構わない。顎(あご)だけは動かして噛み続ければよい。
 私が少食になったため母は気を使い、ご飯をお粥(かゆ)にしてくれたのだが、この快法を始めてから、粥にする必要はなくなった。平常食に切り替えたので、実質的な食事量は遥(はる)かに多くなり、栄養価も高まった。
 摂取した食物は、すでに口の中で半液体状になっている。だから、たとえ胃が十分に働いていなくても、ほぼ完全に消化吸収される。これは結果的に大成功だった。
 快食法を始めて以来、毎週末の体重はぐんぐんと増していった。私は嬉(うれ)しかった。

第60回(平成15年7月19日)
 速眠術
 前回書いた「快食法」は、病気が全治した後も、形を変えて私の習憤となった。
 現在も自宅で誰にも気兼ねせず食事する時は、一時間半ほどかけて目と耳はテレビを楽しみながら、口の方はひたすら咀嚼(そしゃく)を続けている。ただし外出して友人らと食事する際は、ご迷惑をかけないようその方たちに合わせている。この「よく噛(か)む主義」は八十九歳の現在に至るまで、私の健康を陰で支えてくれている要素の一つではないかと思う。
 食欲不振と睡眠不足は、健康回復のためぜひとも克服しなければならない課題だった。快食法と並行し、私は「速眠術」を編み出した。この方法は自己催眠、つまりマインドコントロ一ル(良い意昧での)の一種であると、後日読んだ本で知った。
 ゲートを通り抜ける羊を思い浮かべ、一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、…と数えながら眠る方法は、昔から知られている。ところが三百匹、四百匹、五百匹、六百匹と数えても、全然眠れないというケースが少なくないようだ。私の速眠術は、これと似て非なる方法である。
 それでは、どのように眠りに入るかをご説明しよう。
 まず、眠ろうとするとき頭に浮かぶ雑念を除去する。「いまここであれこれ考えても仕方ないから、後回しにしよう」と放り出してしまうのである。
 次に、呼吸である。あらかじめ、他人が眠っているときの呼吸をよく観察しておき、それをまねる。自分が目をつむったら、静かにその呼吸を踏襲する。そして、一回ごとに「ひとーつ」「ふたーつ」と頭の中で数える。初めての人でも百まで数える前に睡眠に入ることができるだろう。慣れると十前後で眠ってしまう。
 但(ただ)しこれには「べからず」がある。ウトウトしてくると、「二十三、二十四、二十六…あれっ、間違えたかな」ということがある。数を間違えたら、そのまま進んではいけない。必ず「ひとーつ」に立ち戻る。これがコツなのだ。
 呼吸を数えながら、懐かしい土地の風景などをイメージしながら眠りに就く。私はこの方法により、だいたい一分以内で熟睡に入ってしまう。読者の方も、一度お試しいただきたい。

平成24年7月23日
文責 長岡由憲