食養内科

8 自分を治すガン療法  印刷用【PDF】はこちらから>>

 ここに紹介する文章は、平成6年6月に発行された「中央公論」の218頁から255頁にかけて掲載された論文です。著者は平野良平氏ですが、これはペンネームです。平野氏は平成元年6月から平成5年8月まで食養内科に通院された人です。初めの頃、食事療法の勉強のため7日間入院されました。
 「中央公論」が発行された時、1冊私に送ってこられました。私はこの論文を読んで平野氏の別の面を知ることになりました。
 平野氏はこの論文で「ゲルソン療法」によりガンを消滅させたと書いておられます。しかし平野氏は平成12年に亡くなられました。死因はガンでした。
平成25年8月1日
文責 長岡由憲
生還体験レポート
自分を治すガン療法
がん探索グラブ

現代医学を盲信し、暴力療法に身をゆだねていていいのか
いまこそ勇気をもって発想を大転換せよ

「非業の死」が若年層を襲う


いい気なホモ・サピエンス

 環境問題は多く人の意識をとらえはじめている。けれど、「地球にやさしく……」とは思い上がったいいぐさではないか。
 地球はひとゆれすれば、たちまち人間の命を奪うが、私たちがどんなに汚そうが壊そうが、地球は滅びない。それどころか、汚染、破壊したのは、私たちに不可欠な人間環境としての自然の一部であって、地球はびくともするわけでない。
 つまり環境問題は、いい気な人間が、さんざんに競争∞狂騒しまくり、あばれまわった挙げ句、自分の生存基盤の自然環境を汚染し破壊しているもの(目にはさやかに見えねども)。お互いにお互いの首を絞め合いながら一生懸命に自分の墓穴を掘っている――。
 あるいはガイアさん(地球)は人類の滅亡をお望みなのではないか。期待の予定調和は、ガイアさんにとって、この際<いい気なホモ・サピエンス>の滅亡こそふさわしいと思われても不思議はないだろう。
 いつの頃からか、私たち人間はずいぶん自分勝手にしか考えられなくなってしまったようである。万物の霊長とか、進化の頂点に立つ生物とか、思い上がったいい気な思い込みを永い年月にわたって盲信してきたといえないか。

 221ページの表は年齢層別に見た「死因率トップ一覧表」(1992年・厚生省人口動態統計)である。毎年三月下旬に前前年のデータが公表されている情報で、誰でも自由に活用できる資料だ。しかし、その一部をきりとって置き換えた情報は<視点の転換>された場(シチュエーション)で再生され、新しい事実を伝える情報として生まれ変わる。
 事実の引用が、創造性をもちうる原理である。事実は「一つの真実」に限定されるものではない。事実の記録にすぎない写真の〈創造の原理〉がここにあった。さらによく考えるなら、写真に限らずすべての創造は<事実の引用>のバリエーション、と見ることができる。そこで生まれ変わる情報の価値は、鮮度のよさと中身の事実の豊饒さ、といおうか。見かけは似ても似て非なる、鮮度はおちて中身の事実はすえた貧困さ、そんなステレオタイプ化情報の氾濫がこの世を覆い尽くしていないか。混迷から脱出には政治改革に限らず情報改革が必要(無冠の帝王「人寄せの野次馬オルグ」に化身?)。
 報道の自由を反復してとなえても、肝心の視点が既成の報道に寄りかかっていてはお題目にすぎなくなる。
 いま緊急に要請されることは、私たち自身が、思い上がった思い込みの盲信からいかに脱皮するかである。私たち一人一人が、自分の心を「いい気」な盲信の呪縛から解放し、激動する現場の渦中でしなやかに対応できる<視点の転換>の技をもつことこそ、新たな命の可能性をひらくものではないか。

がん探索クラブについて
がん探索クラブは、自分たちのガン体験から現代医学のガン医療の現状に疑問をもち、
家族たちや、友人、知人等の口コミによる、医師、研究者、ガンに関心のある人たちの協力と合意から、いわば必然的に生まれた、ガン情報に関する相互情報交流システムである。がん探索グラブは、自由な市民の同人組織とし、次のルールにより運営されている。
八つのルール
①常に自由な一市民の立場から発言する
②口コミ情報交流を原則とし情報源は秘
③行動はすべてポランティア活動とする
④同人の要請で適時ミーティングをする
⑤三人以上のグループごと世話人をおく
⑥世話人はグループ全員の同意で決める
⑦世話人の合意で事務局世話人を決める
⑧入会脱退や行事参加は自由。会費なし
<活動概要>
1990年5月 発足
1992年6月 がん探索調書の記録スタート
1993年7月 がん探索調書「善意の殺人」の記録完了
1993年9月 細川内閣に「対ガン十ヵ年総合戦略事業」見直しに関する講願書を提出

死因のトッブ

 221ページの表の総合の欄を見ると、居並ぶ死因のトップは、異常 事故 事故 事故……自殺 ガン ガン ガン……。80歳以上になってやっと心疾患。なぜか心疾患のところへきてからほっとする。ガンの脅威もいまさらのように強く迫ってくるが、異常、事故、自殺が死因のトップで続いていることに驚く。
 医学の貢献で赤ちゃんの死は激減し、平均寿命は大幅に延びたが、生まれてくる赤ちゃんの死因のトップが先天的「異常」とは不気味である。
 1~4歳、5~9歳の一ケタ世代の子供たちの死因のトップは不慮の事故。男の子はやはり活発なのか。5~9歳の男子事故死因率は40.8%。カワイイさかりに死ぬ子の半数近くが事故で死ぬ。
 10~14歳、早くもガンが女性の死因のトップに顔を出す。ここでは女の子のガン死率が高い。子供たちに、多いという、白血病、脳腫瘍、骨肉腫等のガンは、なぜか思春期前の年齢層に多い。
 男性の死因トップは、1~4歳から25~29歳世代までの間は事故が独占する。そのピークは15~19歳世代で、61.8%の超高率。暴走族世代……、まさに思春期、昔は人生の花とうたわれた年頃だが、今は地獄の花か? 女性の事故死も15~19歳世代が35.9%でピーク。これからという若い人たちが、みすみす事故で死んでゆく。
 30~34歳世代、自殺が死因のトップにおどり出てくる。男性死因率24.0%。女性は一つ前の世代25~29歳に自殺がトップで死因率24.0%。死者の四人に一人が自殺でこの世に見切りをつけた人。婚期の遅れている今日的人たちの結婚適齢期でもあった。
 男女とも0歳から30代前半、つまり、誕生から青春期の終わりまでの死因のトップを見ると、異常、事故、自殺が高率でならぶ。途中女性の欄に出てくる22.3%。この高死因率で最低。赤ちゃんはじめ子供たちや若者たちが、異常、事故、ガン、自殺であいついで死んでしまう。マトモには生きられず、〈非業の死〉が高率で若年層の人たちの命を奪うこの世とは、なんなんだ?(この頃よくある話、「訳もなくわが子に殺される親たち」とかかわりがあるのだろうか?)。
 30代から70代終わりまでガン死は独走態勢でトップ。男性は少し遅れ30代後半より本番だが、女性30~34歳ガン死率33.4%、早くも三人に一人の高率。以後、女性のガン死はすさまじい。35~39歳で46.7%、40~44歳は48.9%、45~49歳は49.0%、50~54歳は49.3%、50%を超す勢いのガン死。「対ガン十ヵ年総合戦略」やらガン予防何ヵ条やらどこ吹く風?
 ガンは、女ざかり働きざかりの女性をねらって二人に一人に及ぶ高い死因率でしのびよってくる。四人に一人はガンで死ぬというのは平均で、うのみにして油断したら、とんだことになる。
 実数としての死者の数は、高齢者ほど多くなる。年齢層別死者数は、40代後半まで何千人台だが、50代前半には一万人台となり、50代後半は二万人台、60代の後半からは三万人台となり、以後は三万人台が80代前半の平均寿命の頃までつづく。年寄りが死ぬのは順当な自然の摂理、だから実数で比較をするのは意味がない(年寄りにガンが増える理論はナンセンス)。
 ここで問題視しているのは、自然の摂理に反し大勢の人たちが「なぜ死ぬか」ということである。若死にこそ大問題、死因率を重視するのはそれ故だ。どうしてごんなひどい有り様となってしまったか。
 1898年(明治32年・統計表初年度)の主な死因率は次の通りであった。
 一位 肺炎および気管支炎 9.6%(死者数89440人)
 二位 脳血管疾患 7.9%(死者数73989人)
 三位 結核 7.3%(死者数67599人)
 四位 胃腸炎 7.0%(死者数64960人)
 五位 老衰 5.9%(死者数55189人)
 事故死 2.3%(死者数21767人)
 ガン死 2.1%(死者数19382人)
 今の死因率が軒並み20%を超え、時には61.8%に及ぶウルトラ級の数値になるのとは、まるで比較にならぬ小さな数値ではないか。
 平和、平和とばかりに思い込んで安楽な日々の暮らしにうつつをぬかしてきたが、後世の人たちは、私たちの時代のこの「死因率トッブ一覧表」を見たら、なんというだろう? 「平和な良き時代だった」とは間違ってもいうまい。
 その昔、結核が猛威をふるった1943年(戦時中)の最高死因率すら14.1%止まりであった。1992年の最高死因率は、15~19歳男性事故61.8%、50~54歳女性ガン死49.3%。全年齢総合ガン死27.1%。戦時中死病の最高死因率をはるかに超えている。
 死者実数は、圧倒的にガン死がきわだつ。
 1981年 166399人
 初めてガン死因率がトップになりた年。これより10年ガン死者数は毎年平均5733人ずつ増え続け、新たな記録を更新してやまぬ脅威の数値となった。
 1992年 231917人
対前年増加数8190人。過去10年平均増加数を42.9%上回り、ガンは繁殖度を高めた。
 そういえば、ガン告白で注視を集めた逸見政孝さんが亡くなった時、テレビ特番を見たら、ガンと<戦った>と、人々は揃って逸見さんの闘病ぶりを讃えていた。まるでガンと「壮絶な戦い」の末に名誉の戦死をとげたかの印象であった。だが果たしてガンとの戦いであったのか?
 〈視点の転換〉をすれば「壮絶な戦い」の末にガンになったのではないか。
 次ページの死因率図表を見てください。ガン、異常、事故、自殺、他殺の死因率合計が50%以上の年齢層は1~4歳から60~64歳までにおよぶ。そうでないのは0歳の赤ちゃんと65歳以上の高齢者だけ。物心ついた頃より人々は、常に50%以上、時に80%を超える高い死因率で、ガンか、異常か、事故か、自殺か、他殺か、いずれかの「非業の死」とげる。アメリカでは銃器(ガン)死が交通事故を超える勢いというが、精神異常の人、ヤク中毒者、アル中、さらに普通に暮らす「死に体」と化した人々をプラスしたらどうなるか? 実は、0歳児の赤ちゃんも総合死因率2位の「出産時外傷等」17.9%と「未熟児」1.1%を加えると、62.2%の高率で、「無惨な死」をとげていた。

 さて、平野良平は還暦過ぎたサラリーマンである。良平の会社は65歳定年で、ガン発見時現役であった。これから述べることは、平野良平のガン体験をもとに、がん探索クラブの同人との情報交流を経て、相互の協力によって記録されたものである。ポリフォニツク・ドキュメントとでもいうべきものであろうか。

ごまかされるガンの告知

平野良平の体験

 良平は、毎年4月、定例に受診していた成人病検診がE(要精密検査)の判定で、一週間前に胃カメラによる内視鏡検査を受けていた。
 検査時の先生の所見では、
 「胃に潰瘍が認められますね。とりあえず薬を出しておきます。細胞をとりましたから――。細胞の検査結果は一週間後です。詳しいことは、その結果を見てから相談しましょう」とのことだった。
 その一週間が経って、当日のことである。
 部屋を暗くして、胃カメラで撮影したスライド写真を見せられながらの話であった。
 「ごらんのように、腫瘍が認められます。腫瘍は、良い腫瘍と悪い腫瘍がありますが、平野さんのは、その中間の腫瘍と思って下さい。先日差し上げた薬の服用はやめて下さい。大きな病院ですぐに診てもらったほうがよいと思います。どこかお知り合いの病院がありますか。……特になければ、こちらでご紹介しましょう。いま紹介状を書きますからしばらく廊下の椅子のほうで若待ち下さい」
 ウムを言わさぬ感じの速いテンポの話しぶりで、良平はなにを言われたのか、よく納得できないまま、診察室を出て廊下で待つことになった。
 ただ、暗がりで見せられた、血がにじんでただれた腫瘍のナマナマシイ映像は、鮮明に脳裏に焼きつけられていた。
 廊下の長椅子に座って、「良い腫瘍と悪い腫瘍との中間の腫瘍」なんて聞いたことのない話だなあ――。どういうことなのかなあ――。ガン? とは、なぜか良平はその時考えていなかった。というよりは、考えてはいても、意識させない強い働きが無意識下にあったように、今にしては思われるのだが……。
 ただごとではない思いだけが胸いっぱいになってしまって、ただ、ボーっとしている感じだった。そのとき診察室のドアをあけて若い看護婦さんが出てきた。さりげないそぶりで、チラッと一瞬、良平に目線を走らせたのである。あんな目つきで見られたことはなかった。あれはヒトを見る目でない好奇心いっぱいでモノを見る目。その一瞬、ぞっとする感じをともなって、あっそうか、と良平は気づいたのである。細胞検査の結果、ガンと判明したのだ。やはり、ガンだったのだ。
 腫瘍という言葉をガンに置きかえれば、明白であった。
 手遅れの悪い腫瘍(ガン)と、早期発見の良い腫瘍(ガン)があります。平野さん、あなたの腫瘍(ガン)は、その中間です。なんとか治せるかもしれませんが、もしかしたらダメかもしれませんよ、というわけだったのだ。
 良平はしばらく待たされてから、ふたたび呼ばれて診察室に入った。「T病院の紹介状は、このなかに入れておきましたから」、といって手渡された大きな封筒は、胃カメラの写真と細胞検査の資料が同封されているらしく、かなり部厚くなっていた。が、その密封の仕方の厳重さにはおどろかされた。途中で開封することなど絶対に許さないぞ、と言わんばかりのモノモノしさであった。
 ガン告知の問題が、種々論議されている。患者本人に対する配慮や、家族たちへの心配ごともさることながら、医療者側のガンに対する恐怖心というか、並々ならぬオソレ具合はマトモなものではない。かずかずのオソレの事実を知っているからであろう。口では人に「ガンは治るようになった」といっておきながら、ホンネの医療従事者たちのガンに対するオソレは異常でないか。
 良平は紹介状をたずさえ早速T病院S先生の診察を受けにいった。大学病院の助教授の診察室は仰々しかった。助手の先生や看護婦さんと合わせて五人いや六人ぐらい(インターンの先生?)、そんな大勢の人々に見守られながらの受診であった。
 「至急入院の手続きをとりますから、ベッドが決まり次第、二、三日中に入院していただきます。くわしいことは、入院してよく検査してからにしましょう」
 「どうしても中断できない仕事があります。二ヵ月ほど延ばしていただけませんか」(成人病検診以後、内視鏡の予約や細胞検査等で約一ヵ月経過していたから後二ヵ月ぐらいは……と思ったのだが)
 その瞬間、診察室は異常なふんいきの沈黙に静まりかえった。
 どのくらいの時間だったろうか。たぶん、ほんの数秒にすぎない沈黙だったのだろう。が、良平にとっては、錯綜する思いの、ながーい、時間だった。
 しばらくの沈黙をおき、先生はおだやかな口調で、意を決したかのように、「ガンの疑いがあります。延ばすことは危険です」と告げられた。
 この時はじめて「ガン」という言葉が使われたのである。
 「ガンの疑い」とは、あの一瞬の異常なふんいきの沈黙を媒介にして翻訳すれば、「手遅れガンの疑い」となるだろう。また「延ばすことは危険」は、いますぐ入院して手術をしても「命を延ばす保証はない危険」だったのであろう。
 早期発見による早期胃ガンならば治癒率いまや90%といわれているのだから、「すぐに仕事に復帰できますよ」と、ガンの告知をしても気軽に一言そえることができたはずでないか。診察室の先生方の、あの一瞬の異常なふんいきの沈黙は「手遅れガン」のオソレを十分に告げるものだった(定期検診=早期ガン発見という盲信は危険。逸見さんには盲信のきらいがあった)。
 「ぞっとする感じの看護婦さんの目線」「絶対に開封できないゾとばかりの紹介状の密封ぶり」「診察室の異常なふんいきの沈黙」、この三点セットが揃えば、告知されなくても、告知されているのと同じである。ただ、自分が患者の身になって良平に分かったことは、こころのどこかで「ガンではない」という願望が強く働くことであった。「ガン」とわかっていても「ガン」とはいわれたくない、根強い思いが無意識のうちに働く、ということになろうか。このあたりの徴妙な感じが、以心伝心、医者と患者の間にかわされ、ついつい「ガンの告知」はさけられてしまうのかも知れない(タテマエでは告知を希望していても、誰もガンなどといわれたくないのがホンネ)。
 だが、医者と患者が、暗黙のうちに共諜して「ゴマカシテシマウ」ところに、ガン告知の問題の重大性が、かくされているのであった。「ゴマカシテシマウ」ところでは、医者も患者も、お互いに<自立の知恵>など期待しようはなかった。

死に直面して「現実」を知る

 母が、そして、父が、ガンで死亡した。この両親のガン死体験は、良平にとって貴重な経験であった。両親が身をもって、ガンのオソレを教えてくれたのである。二人のガン死は、「現代医学を盲信したら危ない!」と告げるものであった。
 だから、日頃からそれとなく思案していたのである。相ついで亡くなった父母のガン死から、かれこれ三十数年の月日がながれていた。しかし、良平には「こうすればよい」といったメドなどついていたわけではなかった。ただ、現代医学のガン治療の三つの方法、外科手術、放射線療法、化学療法に対して、どうもおかしいぞ? といった漠然とした思いだけは、根強く持っていた。
 たとえば、良平の体験から考えると、ニキビやオデキの治療では、つぶしたり、切ったりする、つまり無理やりに抑えこんでしまうやり方は、あんまりかんばしい緒果が得られていなかった。ニキビは、つぶせばつぶすほど、逆に増えてゆく感じだった。オデキは、切ると痕が残ってしまうし、予後も長引くケースが多かった。むしろ、清潔にして、大切に保護するやり方が、治りも早く、アバタにもならずにすんだ。むろん、ニキビやオデキとガンを同一視するわけにはゆくまい。ニキビやオデキでは滅多に死ぬことはないか、ガンは死病だからである。しかし、正常な細胞に対する「異常な細胞」として見れば、ニキビもオデキもガンも、「異常な細胞」のバリエーションと見ることはできるだろう。
 「異常な細胞」を目の敵(かたき)にして、つぶすことしか余念がないのが現代医学である。
それよりは、「異常な細胞」を生じさせたもとは、「異常な体質」なのだから、そのもとの「異常な体質」こそ改善すればよいではないか。
 「異常な細胞はつぶせ!」は、いやでも闘病となる。<戦争>の発想である。「異常な体質の改善」は、体内環境の浄化活動となる。<平和>の発想である。
 この発想の転換は、コペルニクス的だ。新しい時代を呼ぶにふさわしい。
 キル、ヤク、ドクの暴力療法に依存する現代医学のガン治療のフレームは、まだ<戦争>時代のままだった。

 自分一人で生きているのではない。「生かされている」とは、誰もが気づくことであった。
 しかし、「生かされている」世界は、当然、「殺されている」現実をはらんでいる。「生かされている」だけしか見ないで、もう一方の「殺されている」現実に目をそむけているのでは、この世に対する盲信となってしまう。
 「生かされている」世界への感謝の涙で、「殺されている」現実に対する見る目をくもらせているうちに、殺されてしまう盲信の世界から、どうしたら逃れられるのか。いや、逃れることはできない。目覚めるだけだ。では、どうしたら目覚めることができるのか。
 良平の場合、自分自身の死と直面することが、目覚める契機となった。ガン死した両親同様、自分がガンと知った時、いやでも良平は、自分の死と向き合わないわけにはゆかなかった。決断の時間は、切羽詰まっていた。医者の言いなりになって入院してしまえば助かるかも知れない、が、<戦争>と同じだ、死ぬ確率はきわめて高い(1992年ガン患者推定34万人でガン死者23万人。約3人に2人死ぬ。この確率はガン先進国アメリカの1950年頃のガン死状況と少しも変わらない。医学の進歩は、名医たちのキル、ヤク、ドクの芸とギャラだけ?)。
 仮に助かっても還暦をすぎた身だ。いま手がけている仕事を中断してしまっては、後はない、と覚悟をしなければならなかった。しかも、その時、長年にわたって手がけてきた、良平にとってはかけがえのないシステムづくりが、いままさに、花開き実を結ばんとする時を迎えていたのである。二ヵ月とまでは言わずとも、せめて一ヵ月だけでも猶予がほしかった。もし、ここで投げ出してしまったら、せっかく手がけ育ててきたシステムは、元の木阿弥、生きながらえたとしてもなんの生きがいがあろうか。生きがいを失って長らえるよりは、やりがいのある仕事を全うして死んだほうがまし、と考えた。
 こう言うと、いかにもカッコイイ、よすぎる。ウソではないけれど、それだけではなかった。なんとか助かりたい、なんとか生き延びたい、この世に対する未練も、負けず劣らず強烈だった。
 ガンは、よほどひどくならないかぎり、自覚される症状はまったくない。生理的にはどこも、痛くもかゆくも苦しくもない。だから、死病にとりつかれている、などという実感はまるでなかった。我慢ならない生理的苦痛でもあれば、なんとかして欲しいという思いにかられよう。ところが、なんでもない病気とはやっかいなものだ。わざわざ生身を切り裂いて痛い思いをする手術など、あえてする気はしなかった。手術なんかしないで治す方法はないのか。生身を放射線で焼いたり、ガンだけでなく全身に毒がまわる化学薬品をつぎこんだり、とんでもない副作用がわかっているのに、なんでそんなことをやるのか。それ以外に、治す方策はないのか。ところが、あったのである。マックス・ゲルソン「ガン食事療法」、良平はそれにとびついた。

家族会議

 死ぬも、生きるも、自分一人で勝手に決められるものではない。
 「生かされる」とか「殺されている」とか、そんな大げさな思いとはかかわりはなかった。また、自立の知恵とか、もたれ合いの甘えとかいうこととも、微妙にちがうものと思われた。ごく身近な肉親の人たちの素朴な思い。あるいは、日々、わが身とふれあって生きてきた人たちとの、心の絆ともいうべきか(生活の共有から自然に生じる心の摂理、ならば家族は肉親に限らないだろう)。
 自分の生き死にが、ストレートに、生理的につながっている人たち。自分と喜怒哀楽を共有している人たちはいるものである。家族とはそういうものであろう。
 日頃は、特にそれと意識されていないものだが、死ぬの生きるのとなれば、無視することはできなかった。
自立して暮らしている二人の息子たちと、良平の弟と、そして、妻である。
 あらかじめ電話で手短に事情を話し、文字どおり万障繰り合わせて、緊急に集まってもらった。まるで葬式なみの緊急招集であったが、全員が顔を揃えてくれたことは、良平にとって、無性に嬉しかった。病院から連絡があって、ベッドが決まったから入院するように指定された日の前々夜のことであった。
 父と母のガン死体験によって、日頃から良平が思っていた、現代医学のガン治療法に対する不信について最初に述べた。その大要は前項で述べているとおりである。明後日に入院して手術をすれば、助かるかもしれないが、ダメかもしれない。助かっても、仕事は100バーセント、ジ・エンドだ。ここ1ヵ月か2ヵ月の間に、仕事をなんとしてでもやりとげておきたい。手術をしないで仕事をしながら治す方法があったのだ。数多くの成功例が明示されている方法である。
 ゲルソン療法は、ただ、食事を変えればよいというのではない。ガンは、長いあいだのそれまでの食事のありかたや、ひいては、自分自身の生き方から生じてきたものだから、その生き方を変えるために、これまでの食事を大胆に変えてしまう。ガンをつくりだした体質そのものをいかに変えてしまうかの取り組みなのだ。その考え方は、十分に納得できるものだ。ガンの進行が早いか、ゲルソン療法による体質改善のブレーキの効き目が早いか、そこが生死の分かれ目となる。それは、誰にも予断することはできない。長年つちかわれてきた体質は、今日明日で変えてしまうことなどできっこないのは、分かりきったこと。だが、手術してガンを切りとっても、治る保証はない。死ぬか、生きるか、いずれの場合も五分五分だ。ならば、ゲルソン療法に賭けてみたい。
 それに近いことを、良平は夢中になって、家族たちにしゃべっていた。
意見は、賛否両論、真っ二つにわれた。良平の弟と長男は、良平のいうことにかなりの理解を示した。だが、妻と次男は、真っ向から反対した。
 仕事よりも、この際は命を優先させてほしい。命を優先させて考えれば、手術をして、まずガンを切りとってしまう。その上でゲルソン療法をやったらよいではないか。ゲルソン療法、などというこれまで聞いたこともない治療法に、のるかそるか、すべてを賭けてしまう考え方は、どうしても賛成しかねる、というのが反対者が主張するポイントであった。
 賛成者の弟は、父母のガン死体験を、良平と共有しているわけで、現代医学に対する不信についてよく納得した上で、反対したところで、考えを変える兄ではない、と良平の心のうちまで読みこんだ上での賛成だったようである。
 長男の賛成理由は、良平に対する信頼にもとづくものか、と思われた。長男は真っ先に発言し、賛成の意を表した。
 反対者も賛成者も、いずれも良平の身を心から案じてくれていることが、痛いほどに、身にしみた。それだけで、家族会議をひらいた意義はみたされていた。
 反対者の主張する、手術して一度ガンを切りとってしまってから、ゲルソン療法をしたらいい、という考え方は、もっともなように思われよう。だが、ゲルソン療法は、自分自身の体質の免疫力を高めることをめざしている。手術をすること、それ自体が体の免疫力を弱めることにつながってしまう。それに、食事療法は、消化器官である胃腸の働きに依存しているので、その肝心の胃を手術してしまうとなれば、食事療法そのものの効力は大幅に失うことになろう。その上、ガンの位置が、胃の上部、噴門に近い場所だった(黒澤監督の、名作「生きる」の主人公の胃ガンとそっくり)。識者からの情報では、胃の全部を切りとってしまうことになりかねない、とのこと。それでは食事療法の効力など期待するほうが無理、となってしまうだろう。今のうちなら、自覚症状はまったくないし、食欲もきわめて旺盛、生きる意欲も体力も十二分にある。なかなか手間がかかって大変、といわれている食事療法だ。妻にもいろいろとやっかいをかけるとしても、だれよりも自分自身が必死になって取り組んで、是が非にでも、成功させてみせると良平は決意していたのであった。
 食事療法は、生半可な取り組みをしたら失敗するといわれている。その点、なぜか良平には不思議なほど内心に自信がみなぎっていた。
 弟の読み通り、良平自身が、頑として自説を変えるつもりなど毛頭ない,のだから、反対側も、最後にはしぶしぶ承知するより仕方がなかった。
 いかにも独裁者に見えるかも知れない。しかし、民主主義のルールに従って評決したとしても、この場合は、「三対二」となる。結果は同じだった。ただ、良平としては、家族全員に同意してもらいたかった。良平の考え方や生き方を理解してほしかった。たとえ結果がどう転んだとしても、そこに経験の交流が可能となる、と思われたからである。

 家族会議は、予想をほるかに超える収穫となった。滅多に死ぬわけにはゆかないナ、と良平は決意を新たにすることができた。言葉にならない家族たちの言外の励ましに、良平は、心の深奥で静かに燃えはじめる予兆を感じとっていた。
 そういえば、かつて家族会議はルールづくりの原点だったのではないか。ルールが、人間の自由な生き方や考え方を抑制するものならば、そんなルールはみんなが共有するはずはない。遊びのルールを考えればすぐにわかることだ。楽しむためにこそ、遊びはルールを必要とする。もし、ルールをなしにしてしまったら、たちまち楽しみは失われ、遊びほ成立しなくなる。同様に、もともとルールはみんなの生きる意欲を励まし、お互いの暮らしを楽しくするためにこそ、つくられたものであろう。ならば、ルールづくりの原点として、家族はもっともふさわしいグループと言えよう。
 殺すな! 盗むな! 犯すな! は、ルールの万国共有のルーツ。ルールづくりは読み人知らず。
 ともに家族会議で決めたものならうなずけよう。いま、そのルールのルーツが乱れはじめている。
 殺せ! 盗め! 犯せ! (キル ウツ ヤク トル ドク レイプ バクゲキ……)の百鬼夜行。世界は、新しいルールづくりの時代を迎えているのである。

蜂谷章子さんの命をかけた記録

自分を治すガン療法

 ガン! ガン! ガン! ガン! 巷は「ガン情報」の乱打。このところのガン死の急増にともなって「ガン情報」の氾濫である。ところが、「さて、どうしたらよいか」となると、肝心なガン患者の当人たちは、右往左往するばかり。あげくの果てに「ガン情報」の大洪水にのみこまれ、行方知らずの憂き目を見る人たちは、けっして少なくない。
 迷宮入りの現代医学の「ガン医療」に見切りをつけ、「自分で治すがン療法」をめざすのはよい。しかし、これでダメならこっち、それでダメならあっち、でもダメならあれではどうか式の、よりどりみどり自由気ままにさ迷うだけの「自分で治すガン」医療は、他力本願に依存してきたこれまでの「医者まかせのガン」医療と、実質かわりないではないか。

 蜂谷章子・蜂谷隆『ガンと道づれ』1992年6月30日初版(明石書店)。
 腎臓ガンで亡くなった蜂谷章子さんと夫の隆さんと、ご夫婦共著の六年間の記録である。当初、手術を見送り「自分で治すガン」をめざして各種のガン療法を試み、いま一息と思われたのに五年目についに手術、一年後に再手術、その半年後に亡くなられている。本にする希望だった蜂谷章子さんの遺稿を、夫の隆さんが手記を加えてまとめたものである。
 ガン医学の最高権威に命を託し死ぬまで記録を発表しつづけたあの千葉敦子さんは六年半であつた。「自分で治すガン療法」をめざした蜂谷章子さんが六年。しかも、千葉敦子さんは当初に自覚症状がまったくなしの早期発見ガンに対し、蜂谷章子さんは発見した時点で医者から「手術をしなければ半年の命」といわれ、本人も自覚症状(ひどい血尿と肩や背のしこりが硬直)のあった手遅れの末期ガンに近い。それを六年間も命を長らえたことは評価されてよいだろう。現代医学は、いまだに術後五年生存率などと大いばりしているのだから(最近の治療効果比較資料において、四年生存率などと、なぜか一年下げた?)。「自分で治すガン療法」に活路を求めて、〈自立の知恵〉の思索を深めながら、けなげに生きた彼女から学ぶことは多い。
 それにしても38歳で発病し、44歳の若さで、十三歳と九歳のお嬢さん二人を残して亡くなった蜂谷章子さんの思いは、察するに余りあるものがある(彼女の死は、1991年、女性40~44歳ガン死率50.8%、最高のガン死率を記録した時。同年齢層ガン死5858人)。
 命をかけた『ガンと道づれ』の<事実>と<問題>を私たちが共有することこそ、なによりの彼女の死へのたむけとなるだろう。以下、蜂谷章子さんの体験事実と平野良平が体験した「ゲルソン療法」の考え方をクロスさせながら、「自分を治すガン療法」の探索をすすめる。

 これまで、常に体力以上のことをやってオーバーヒートする私は、あちこちを痛めて病院の世話になってきた。だが、いつでも西洋医学だけでは治りきらないのである。たとえば、潰瘍はなくなったが、胃の調子が常に悪いとか、検査値は正常だが疲れやすいとかという時、私が頼り、実際に良くしてくれたのは、整体であったり、ハリであったり、すなわち西洋医学とは別の「医療」なのだった。
 要するに、私は自分のガン治療を、病院を信頼して任せる気持ちにはなれなかった。とほいえ、その他の選択肢はあるのだろうか? 手元には二つの方法を示す本があった。一つは玄米菜食でガンを治すという森下という人のクリニック、もう一つは粉ミルクを使い、断食と指圧でもって「ガンは助かる」という大阪の加藤清という人の道場である。今から玄米を食べても間に合わない気がするし、一方「私はこれで良くなった」式の本もたまたま良くなった人が載っているだけかもしれない。
 迷ったあげく私は、大阪へ電話してみることにした。電話口に出て来た元気のよい女の人は「どなたがガンなんですか」とたずねた。「私です」というと一瞬沈黙があった。そして「切るのならいつも切れます。その前に体質改善しませんか」という返事があって、それを聞いとたん、なぜかほっと気持ちが緩んだ。そうだ一度行ってみて、ダメだと思ったら戻って来て手術を受ければいいのだ。(前掲書21~22頁)

 蜂谷章子さんがガンを告知された1985年当時、一般に入手できるガン情報はまだ少なかった。特に現代医学以外のガン情報の入手はむつかしかったろう。また、「私はこれで良くなった」式の本はいろいろあっても、納得できる裏付けに乏しく、迷うのは当然だったろう。
 その4年後1989年、良平も同じ立場に立たされるのだが、その時点でも、現代医学以外のガン情報の入手のむつかしさは似たようなものだった。まして、よし! これだと納得できる「自分で治すガン療法」に関する情報ともなれば、ほとんど皆無に近かった。
 蜂谷章子さんがたまたま入手した「玄米菜食療法」と「断食粉ミルク療法十指圧」の二つのガン療法と同じように、良平と「ゲルソン療法」との出会いもまた、偶然といってよいものであった。ただ違うのは、自分がガンと知ってから入手したものではなく、両親のガン死体験をふまえ、長い期間にわたってそれとなく入手した各種ガン情報の中から、もし自分がガンになったらと、数年前にインプットしていたものであった。したがって、蜂谷章子さんのいう「そうだ一度行ってみて、ダメだと思ったら戻って来て手術を受ければいいのだ」とは、考え方が違う、いや、<心の位相>が違うとでもいったらよいだろうか。これは、「自分で治す」と覚悟した人にとって、きわめて重要な問題をはらんでいるのである。
 つまり、「ダメなら……」と思う、<心の位相>はやはり他力本願となる。だから「なぜかほっと気持ちが緩んだ」のだ。
あくまでも「自分で治す」ために必要な<心の位相>は自力本願。その必死な思いの心のハリに、「ほっと」する心のスキを与えてしまってはまずかった。
 心身のコワバリを解くリラックスを悪いというのではない。これまで医療は、久しく<安静>を基本の療法としてきた。特に疲労が原因の病気に<安静>、つまり心身のコワバリを解きほぐすリラックス療法は有効であったろう。だから蜂谷さんの「私が頼り、実際に良くしてくれたのは、整体であったり、ハリであったり」したのである。
 しかし「自分で治すガン医療」にとって大切なのは、「ほっと」する心身のやすらぎをもとめる<安静>よりも、生き生きと心身の<活性>をよみがえらせる心のハリではないか。
 15年前に良平は肺結核の療養体験があった(結核患者はガンにならぬのは丸山ワクチン? 時効か)。結核の場合「ほっと」する心身の<安静>はたしかに有効と思われた。しかしガンはちょうど逆だ。<欠乏>時代の死病であった結核と、<過剰>時代の死病であるガンとは、療法上で原理的に違うのは当然でないか。
 結核は<安静>と<栄養>が基本療法。
 ガンは<活性>と<浄化>が基本療法。
 ここをふまえた上で、いかに<活性>を図り、いかに<浄化>を図るか。アプローチはいろいろ方法があってもよいだろう。これでなければダメという絶対的なものはあるまい。それまでの生き方を原因と見れば、その生き方の違いに応じた方法はいろいろあってよいはずだ。問題は原理的に間違わないようにすることであろう。なにより大切なことは自分自身が当事者(主権者)となることである。
 「やってみてダメなら変える」フレキシブルな生きる姿勢は悪くはない。「99の失敗の中から1つの成功」といったホンダ創業者の心のあり方は<活性>化の最たるもの。ここで問題としているのは、まだやってもいないうちから「ダメなら」と「ほっと」安堵してしまう心のあり方であった。
 フランス革命の、一夜で白髪となってしまった王妃マリー・アントワネットの話を持ち出すまでもなく、心のあり方が身体に影響を及ぼす例は、私たちの日常でもいろいろ確認されていることだ。たとえば、心配ごとがあれば胃腸の調子がおかしくなったり眠れなくなったり、倒産会社の社長の心労は血尿が出るとまでいわれている。ましてガンは、心のセルフコントロールだけでも治してしまうという「サイモントン療法」や、鍛練によっては飛ぶ鳥も落とすという「気功」などが療法として取り入れられたり、おどろくほど多数の各種「生きがい療法」がある。気のもちようで微妙に変わる心身のあり方が「自分で治すガン療法」にとって、ことのほか重視される所以である。蜂谷章子さんもしばらく後になって次のように気づくのだが。

 もう二度目の春がきていた。暖かくなるのはうれしかったが、焦りを感じないわけにはいかなかった。11月に撮ったスキャンでも変化なし。なぜ良くならないのだ? それは長い長い冬だった。あまり外へも出られず、友人にも手紙を書く気力もなかった。しかし、ついにこうした長い時問の経過が、私に何かを気づかせようとしているのではないかと思えてきた。私は「○○をのんだら」とか「○○を食べなかったら」病気が治ると考えてきた。これでは西洋医学を批判しても、何かに頼るという点ではあまり違わないではないか。薬や注射が健康食品や民間薬に変わっただけに過ぎないのではないかと(前掲書38頁)。

「自分を治すガン療法」の難関

『人はなぜ治るのか』(アンドルー・ワイル著、上野圭一訳、日本教文社)によれば、
信念だけでも治ることがある
と明言されていた。では、どうしたらそんな信念を持つことができるのか、となろうか。ガンを告知された人たちにとって、どんな治療も初体験だから「やってみなければわからない」と素朴に思うのは仕方かなかった。しかし、いま、はっきりしていることは、ガンには、万人に効き目のある特効薬などはない、決め手の療法などもない、という事実をまずしっかりと認識することだ。
 巷で喧伝されている、いかなる療法も、どんな薬の類(たぐい)も、「治った人もいる」し、「ダメだった人もいる」ということが、真相である(金もうけだけの似非(えせ)療法は論外)。
 だから「これで治る!」という話にうりかり乗せられてしまうのは、危ない!
 あるいは「ダメなら……」とあっちこっちうろうろするのは、もっと危ない!
 繰り返し述べてきたように、ガンはこれまでの自分自身の<生き方そのもの>が、真の犯人。
 したがってガン医療は、なによりこれまでの自分自身の<生き方そのもの>をどうとらえ、いかに改心させるかの取り組みなのである(つまり、「自分で」でなく、「自分を」治すということ)。
 自分自身<生き方そのもの>の、文字どおり必死の問い直し。「ダメならダメ」後なない!と覚悟をしなければならなかった。なんといってもガンは、死と直接向き合った難病である。ついでになめてかかってはならなかった。それに、「自分で自分を変える」のは、できそうでなかなかできない至難の業(わざ)。タバコをやめるのも、酒をやめるのも、自分の好きなものをやめるのは容易でない。ましてそれまで自分自身でよいと信じてきた「生き方そのもの」を変えてしまうとなれば、それがどんなに難業であるか察しがつくと思う。「自分を治すガン療法」の最大の難関がここにあった。
 この辺の事情について、ゲルソンは次のように述べている。

 国民が全てガンで死ぬか、それとも自分たちの生き方や栄養条件を根本的に変革する知恵・勇気・意志を持つかの、いずれかの道を選択しなければならない時が遠からずこよう。なぜならば「ガンとは生き方と結びついた現象である」からである(マックス・ゲルソン『ガン食事療法全書』今村光一訳 21頁、徳間書店)。

 ゲルソンの『ガン食事療法全書』の原書の出版は、1958年。今から36年前である。奇しくも、公害問題の原典ともいわれる『沈黙の春』のレイチェル・カーソンが、その執筆をスタートさせている同じ年であった。
 ゲルソンの説によれば、自然は、人間にとっての<外部代謝>、であり、人間の<内部代謝>に必要不可欠なものを供給している、というのである。
 だから、自然の破壊・汚染は<外部代謝>の破壊・汚染にほかならず、即それは人間の<内部代謝>の異常につながってくるわけである。そして<代謝異常=ガン>と指摘している。
『沈黙の春』の出版は1962年、4年後であった。ゲルソンは、自然破壊、環境汚染の重大性を、いちはやく単純明快に警告していたのである。
 言われてみればコロンブスの卵で、当然すぎる成り行きではないか。人間自身もともと自然の摂理から生まれたのであってみれば、気まぐれな自分たちのわがまま勝手なやり放題で、自然を破壊してしまえば、即それがわが身にふりかかってくるのは当たり前。それをどう始末したらよいか、どう改めたらよいか、まったくわからないままにわめきあったり、いがみあったり、そのあげくに、意識的にも無意識的にも互いに殺しあったりしている人類は、もしかしたら、類としては未熟児のレベルではないか。数十億年ともいわれる地球史の観点から見直せば、たかだか数十万年のホモ・サピエンスは、まだまだこれからのやりかた次第ではどうにでも変わる未熟児の類、と見たほうがよくはないか。また他の生物の視点から見れば、生まれてから一人立ちできるまでに20年以上もかかる人間たちの生きざまは、未熟児の類としか見えないのではないか。
 少なくとも、心のレベルから見直せば、今日的人間どものありさまは、そうと見たほうがすっきりと納得できるというものだ。未熟児なら死亡率は高いのだから、滅んでしまっても、なんの不思議があろうか。こう見てくれば、ゲルソンの「国民が全てガンで死ぬか」という言葉は、けっしてオーバーなこけおどしなどではないと理解されるだろう。
環境問題などは、人類の将来のこととか、自分以外のことは知ったことかと、大口をたたく正直な「医者のホンネ」のご仁もいるけれど、死ななきゃなおらぬ口とひとまずいっておこう。
 権威ある先生方は口を開けば「ガンは治るようになった」と一つ覚えのご託宣だが、裏腹に、ガン死は年々急増してやまぬことは誰もが認める事実。そのガンはほかでもない自分自身の「生き方と結びついた現象」とは、自然環境の破壊=外部代謝の異常=内部代謝の異常=ガン、だったのである。
 列をなして次々と海に飛びこんで死んでゆくネズミの大行進さながら、とっくに絶滅への大行進がはじまっている、それはガンそのものの状況といってよい。
 なぜガンになるのか。なぜガンが増えるのか。ゲルソンは次のように指摘する。
 私は全体的観点(コンセプト・オプ・トータリティ)を重視することによって、ガンの真因がわかるようになると考えている。また、それが実際の治療に役立つとも、思っている。(中略)
「植物も動物も人間も永遠の大自然のサイクルの一断片でしかない」といったような自然なスタイルの生活をしている人々は、ガンにならないという事実が何世紀にもわたって明らかにされてきている。これに反し、食事をますます大規模に近代化させてきた世界では、比較的短期問にガンを含めた退化病の犠牲になるようになった。
 最新の医学的観察で、ガンと無縁かことで一番有名なのは、フンザの人々である。彼らはヒマラヤ山中の斜面に住み、自分たちの土地でとれる自然な堆肥で育てた食べ物だけで生きている。外部からの食べ物はここではまったくタブーである。(前掲書35頁)

 これと関連して、蜂谷章子さんも次のように自分の生活を反省していた。

 戦後、食品添加物や加工品がどっとふえたが、これを食べて成長したのがわが団塊の世代で、若年のガン患者が増えている理由もこのあたりにあるかもしれない。毎日食べている食物がわれわれの体をつくっている。食事を変え、運動をし、よく休息するだけでかなりの病気は治ってしまう。反対に、ストレスを過食、甘い物、お酒やタバコで解消したつもりでも逆に体を痛めてしまうのだ(『ガンと道づれ』8頁)。
 幼児期に結核をやったことのある私は、小さい頃から肉や魚をよく食べさせられた。甘いお菓子も大好きだった。そのせいか、よく故障が起きる子で、母親に「今日はどこが痛いの?」と聞かれたものである。大人になってからも肉や魚をよく食べた。自分ではそれほど好きでもないが夫に合わせたり、職場の人たちと外食するから、どうしてもたくさんとることになる(肉、魚の多食と白砂糖の組み合わせこそがガンヘの最短コースなのだ)。
 私たちの血や肉を直接つくっているのが食物なのだから、そのとり方で体も変わるのだという、本当に当たり前のことを私はてんで考えたことがなかった。ただばく然と添加物は悪い、無農薬のものを、野菜や海草も、というように口につめ込んでいた。食餌療法をしてもその時だけで、酒、タバコはやめられず、また異常なほど甘いものが欲しい時期もあった。(中略)
 都会での忙しくカサカサした生活は、人間も自然の一部であり、自然と離れては生きられないのだということを忘れさせてしまう。また人間も食べ物としての動物や植物たちも、ともに自然の中の一環であり、彼らの生命をもらって我々が生きられると考えたなら、もっと違った食べ方になるだろう。
 環境としての自然破壊や、食物の汚染について少なからず関心を寄せて来たつもりだった。しかし、頭の中だけの関心でなく自分の生命に関わる重大で身近な問題だ、ということに私は気づき始めたのである。(前掲書34~36頁)

 蜂谷章子さんの6年間の療養経過の大要をたどってみると次のようになる。
 1985年 10月より約半年、断食ミルク療法十指圧、間をおいて二度大阪で滞在療養をする。
 1986年 2月以降、6ヵ年にわたりMMK(ヨード剤)療法。死の直前まで統ける。
 1986年 夏から玄米菜食療法。消化が悪いので玄米は当初おかゆにした。
 1987年 2月より、千坂式療法。「3ヵ月位でメドがつく」といわれて始める。ハードな食事療法だったが、高価な遠赤外線サウナを買え等押し売りされて、驚いて中断する。
 1987年 3月、穂高養生園、にゆく。自分自身で体や心をコントロールすることをメイン療法とした「セルフケア」療養所。1日2食の玄米菜食、運動、温泉、ハリ、湿布、などを自主的に組み合わせる。ここが気に入りたびたび長期滞在。心の拠点となる。
 1987年 秋~88年春にかけて、池上の松井病院で笠原先生の心理療法、ユニークな心理分析に種々示唆される(平野良平の心理療法の先生と同じ。良平の心理療法は後述する)。
 1988年 5月、いくつかの検査の結果で「悪性腫瘍は認められない」といわれ大喜び。この時期は、ガンと分かった直後にくらべ、はるかに体力がついてきた、と自賛。
 1988年 7月、一転して、CTスキャンの結果「移行性上皮ガン」と告げられる。
 1988年 8月、追い討ちをかけられるようにリンバヘの転移が発見される。ひどくおちこむ。
 1988年 9月~10月 40日穂高養生園滞在。ショウガ湿布と里芋バスタに重点をおき療養。以後、1990年4月に手術するまで、ショウガ湿布と里芋バスタ療法を継続。
 1989年 初頭の頃より「ガン療法なんでもOK」で有名なO病院にゆく。治療についての相談や各種検査を受けたようだ。悩んだ末に手術を決意。病院は、O病院からの紹介。
 1990年 4月、手術後の制ガン剤をことわり、M先生のリンバ球療法を選ぶ。
 1991年 5月、2度目の手術。
 1991年 8月、腹水のため再々入院。
 1991年 10月3日、死去。

 書き下ろしで書かれたものでないため、一部経過が不明な点もあるが、大要に大差はあるまい。ここで確認できる問題点は、88年5月の「悪性腫瘍は認められない」検査結果の大喜びか、逆転して、わずか2ヶ月後の7月には、転移ガンを発見、ひどくおちこむところだ。ここでなにがあったのか。

 今年の春、尿や血液その他の検査で、ガンの反応が出なかったものですから、大きさは変わらなかったものの、悪性でなくなったのではないかという希望が出てきました。そこでほっと気がゆるみ、食べ物を拡げたりしたせいでしょうか。おなかの方に新たに大きな腫瘍が二つも見つかりました。7月末に行った病院では、「移行性上皮ガン」という立派な病名さえいただきました。この事実を受け入れるのは2~3ヵ月かかりました。
 おなかの上から固いしこりを触れることができます。落ちこんでくると、このしこりがどんどん大きくなり、体中に拡がっていくというイメージを振り払うことができなくなります。子どもの看病疲れなどもあって、養生園に来た時は、「死神をしょっているような顔」をしていたそうです。これまで、わりに元気でがんばってきましたが、今回は何かと心細く、そして大げさにいえば生きる気力が萎えてきたような感じでした。(前掲書67~68頁)

 1988年10月頃の手記である。「そこでほっと気がゆるみ」、その上タブー、の「食べ物を拡げたりした」。頭の中ではいろいろ分かったつもりでいても、その実はなにもわかっていないにひとしかった、と言わざるをえない。命の営みは、一瞬の油断で、大ケガもするし、命を失うこともある。療養2年半、ようやく好転への兆しが見えた矢先、まさにそこからが本番だったのに、一瞬の気の緩みから、みすみすチャンスをつぶしてしまったかに思われてならない。チャンスとピンチはいつも道づれだった。
 ガンは数十年にもおよぶ自分自身の生き方のトータルな結果であってみれば、数ヵ月や数年で治ると思い込むのが間違い。さらには、外部代謝である自然環境の破壊・汚染を生みだす私たちの生き方を変えないかぎり、終わりはないと覚悟しなければならなかった。
 原理的に自然破壊の最たる原子カエネルギーは、一瞬の油断から多数の人たちの命を奪い、何万人ものガンと前ガン症状の人々を一挙に生み出している。そこでは空気も水も光までも、そして食物のすべてが汚染されてしまった。さらに汚染は風や雨にのって世界中にばらまかれた。そこに凝集されたかたちでの私たちの今日的生き死にのありさまをみることができるのである。
 自分がガンにならなければ関心ない、などといえる段階ではなくなってきている。誰にとってもガンになる確率は刻々高まってきた。ゲルソンの1958年の頃は、6人に1人がガンで死ぬといわれた。その30年後の今日4人に1人、いや3人に1人に迫る勢いである。大阪府立成人病センター調査部の推計による2015年はガン患者737000人にもなれば2人に1人を突破することになろう。
 ガン患者は、とかくガン治療について甘く考えがちだ、とも言われるが、ガンになっていない人たちにいたっては、太平楽の世界から一歩も出てはいないだろう。自分の専門のことしか見えない理解できない専門バカとなり果てている。それゆえ、ひとたびガンと告知されれば、なすすべを知らず、ひたすら他力本願の心のレベルで右往左往する有様。ガンで死のうという達観(?)したエライ先生には、この際遠慮なく死んでいただいて、自分自身の生きざまを即刻見直さなくては手遅れとなってしまうだろう。
 ゲルソンのいう「根本的に変革する知恵・勇気・意志を持つ」選択の時は来ていた。

「生き方そのもの」がガンをつくる

「死を内側におく心」とは

 ここまでしつこく言っていることは、ガンの認識がまるで低次元なこと。そのためガンと取り組む心のあり方が、なお既成の常識のフレームの中で彷徨してしまうこと。大切なのはゲルソンのいうコンセプト・オプ・トータリティの視点(専門のミクロの視点から脱皮した生活者=主権者の視点)によって、自分自身のこれまでの「生き方そのもの」を徹底して洗い直すこと。そこでリフレッシュされて活き活きと新たに生まれ変わってくる心のあり方こそは、ガン療法にとっての成否を決定するキーポイントである。
 なぜならば、これまでの自分自身の「生き方そのもの」がガンの真因ならば、それと深くかかわる心のあり方が根底から変わらぬ限り、ガン療法の成功は期待できないからだ。
 一時治ったかに見えても、たちまち逆もどりするガン療法のむつかしさがここにあった。
「信念だけでも治る」が、盲信では、その成否の確率は宝くじ並みとなろう。
 その心のあり方の違いを一口でいえば、「死を外側におく心」と、「死を内側におく心」との位相の違いといおうか。
 太平楽を決め込んだ人たちの日常は「死を外側におく心」の位相である。
 ガンを告知された人の日常はいやでも「死を内側におく心」の位相である。
 ところが、ガンと知った人たちの多くは、ついでに「死を内側におく心」などはまっぴらなのだ。なんとか逃れようと、ワラをもつかむ思いにかられオロオロしてしまうのであった。そのあげく、どんどん死の方向に追い込まれてゆく。どうしようもない段階でようやく「死を内側におく心」とならざるを得ないハメとなる。だが時すでに遅く「死の受容」ということになってしまうのだ(折角の問題提起の映画「大病人」も、「死の受容」のプロセスを語ることに力を入れすぎた)。
 しかし、ごく素朴に考えるなら、この世の人はすべて必ず死ぬのであってみれば、もともと生きることそれ自体「死を内側におく」ものであった。それを「死を外側におく心」で生きるのは、「生き方そのもの」が甘いというか、ウソっぽくなってしまうのではないか。 ウソっぽい命の営み、ならば、生きがいを感じないのも、自然破壊も、ガンの大繁殖も、自然の摂理からの必然的な成り行きかも知れなかった。ゲルソンは、ガンは治療と予防が一体、と言っている。ウソっぽい命の営みを打ち切って、ホントの命の営みをとりもどすための取り組みが、ガン療法の根底にすえる心のありかた。それは、「死の受容」というよりは、「死を内側におく心」の必死な「生き方そのもの」の目醒めであった。
ウソっぽい命の営みは、すこし視点をひいてワイドにこの世を見直すなら、至るところに見えてくるではないか。たとえば、過労児たちである。子供たちに成人病が多発するわけである。ミクロのフレームに押し込めてマクロの可能性を抹殺し、点数かせぎに拍車をかける命の営みは、ますます激化してゆく。幼稚園児にまで(時に胎児にまで?)およんでいるというではないか。まだとおーい何年後かのいわばあの世のため、この世のホントの命の営みを抑圧するウソっぽい命の営みは、ガン死予備群を、金に糸目をつけずに時々刻々とつくりだしているようなもの。それとは気づかぬソラオソロシサ。ガンになってからではもう遅い。ガン死がガンガン急増する道理である。
 この道理をみきわめず、それ食事療法、それ東洋医学、それ運動療法、それ○○療法、といろいろやってもラチはあかない。また、自分自身どうしたらよいか<自立の知恵>など出しようもない。
 ここでいう、心のあり方や心の位相とは、いわゆる精神主義とは無縁である。
 私たちの日常の心のあり方が、どうもマトモではない、狂っているらしいということだ。
上ばっかり見たり、下ばっかり見たり、いつの間にか、まっすぐマトモに見られなくなっていないだろうか。やらない先から気ばかりもんだり、やってしまったことばかり気をとられたり、ずーっと遠い未来のことに思いをはせる、かと思えば、ずーっと昔の過去のことにあこがれる、そのくせ、肝心かなめの自分自身の、いま、ここに、時々刻々序と生きている、この世の現実のまっただなかで、たしかな<事実>が見えていない。なんとかしなければ自分自身の命とかかわる大事な<問題>を、まったく見失ってしまっている。これはもうマトモに生きている姿ではない。生きそこなっているというか。いつか私たちの命の営みの心の深奥はうつろと化していた。その<うつろな心の営み>こそ、ガンにとっては好都合な<繁栄の往処(すみか)>となったのでは。
 ゲルソンは、自分のガン療法に関する基本的理論を次のように述べている。

 一口で言えば、私の理論は次のようなものである。
 「最も基本的な問題は、目に見える症状としての腫瘍の増殖という現象ではない。最大の問題は、病気に対する低抗力、免疫力、治癒能力が喪失されているということも含め、体全体の代謝がダメージを受けているということである。そしてこれは、あれこれが原因だというような、目に見えるような原因だけでは説明もできないし、認識もでぎないものである」
 つまり私の考えでは、ガンはホルモン、ビタミン、酵素の不足の問題でも、またアレルギーやウイルスあるいはその他、既知および未知のどんな細菌の感染症でもない。また体内での特別な中間代謝物質などや、いわゆる発ガン物質などと呼ばれる体外から体内に入るある物質が生み出す何かに、体が冒されて起こる病気でもない。これらの全ては、いわゆる第二次感染などと呼ばれるものとして、人間のガンの発病につながる寄与因子になってはいよう。
 しかしガンは、単純な細胞の問題でもなくて、体全体の代謝の質を低下させていくような多くの有害な要素が蓄積され、肝臓の働きが次第に阻害された結果、出てくる病気である。だからガンは二つの側面、総体的側面のほうは、肝臓が害されると同時に消化系全体がダメージを受けることによって、きわめて遅々と進む、目に見えない現象である。そしてそれが後になって、重大な全身症状が目に見える形で出現してくる。(『ガン食事療法全書』63頁)

ガン発生のメカニズム

 1915年(大正4年)、今から79年前である。ガンを人工的につくる実験に成功した、二人の日本人がいた。山極(やまぎわ)勝三郎氏と市川厚三氏。それは当時世界中から注目された画期的な成果だった。それよりも二年前、寄生虫をネズミの胃に入れて胃ガンをつくった実験が、初めて人工的にガンをつくったものと評価されて、ノーベル賞をもらった人がいた。しかし、山極、市川両氏の実験は、普通はガンなど発生しないウサギの耳に、人工的にガンを初めて発生させたもので、寄生虫の力をかりてネズミの胃ガンをつくった、ノーベル賞の実験などよりはるかに有意義な実験の成果であった。
 ゲルソンは、この二人の日本人の実験を高く評価し、また、そのガン発生のプロセスを重視した。

 ガンを最初に実験的に起こした山極と市川は、ウサギの耳にタールを9ヵ月間塗り続けた。この実験は、ガンが現れる前に肝臓が傷つき、そこに病理学的な変化が起き、ついで腎臓、脾臓、リンパ系にもそれが起きることを確かめたという点で、重要な意味がある。ダメージを受けた細胞がガンに<変質>するまでには、肝臓を毒化するための、長い時間が必要なのだった。(前掲書69頁)

 この画期的な実験の成果により、私たちは次のことを確認することができる。
 1.ガンは生体の代謝機能を低下させるような、有害な刺激を過剰に受けた時に発生する
 2.ダメージをうけた細胞がガン化するには肝臓を毒化する長い時間を必要とする
 3.肝臓以外の腎臓、脾臓、リンバ系も、ガン細胞を発生させる以前にダメージをうける
 1の有害な刺激は、放射能はもとより、農薬、食品添加物、栄養過剰その他各種有毒物質のみでなく、ストレスを誘引する精神的生活条件のすべてを含むと見てよいだろう。9ヵ月の長期にわたって監禁され、耳にタールを連続的に塗りつけられたウサギの身になれば、不当に抑圧されたまま不快な刺激の過剰な受容は、それ自体<うつろな心の命の営み〉と化しておかしくあるまい。
 2と3は、ダメージをうけた細胞がガン化するためには、ゲルソンの前言での指摘、「体全体の代謝の質を低下させていくような多くの有害な要素が蓄積され、肝臓の働きが次第に阻害される」という、肝臓を毒化する長い時間がかかるということである。つまり、刺激をうけた細胞がストレートにガン化するわけではなかった。その他の内臓諸器官も、同時にダメージをうけている。それらはひっくるめて言えぱ、ゲルソンの指摘した<内部代謝の異常>といえるだろう。
 ガンが発生するまでに長い時間、時には何年間にも及ぶことがあるのは、<内部代謝の異常>とかかわるという理由のため。次第に体重が減ったり、顔色が土気色にどすぐろくなったりするのは、このような病理現象にもとづくものとして理解されるだろう。
 また、<外部代謝の異常=過剰な有害刺激>→<内部代謝の異常=ガン>と見れば、まさに「ガン発生のメカニズム」を、山極・市川両氏の実験の成果が立証していたことになる。なんと80年にもなろうとする今日まで、なおそれが理解されていなかったのだ(ここには、なおかくされた大きな問題がひそんでいるが、この問題については稿を改めなければなるまい)。
 さらには、ゲルソンの前述引用の言葉、「そしてこれは、あれこれが原因だというような、目に見えるような原因だけでは説明もできないし、認識もできない」「病気に対する抵抗力、免疫力、治癒能力が喪失されているということを含め、体全体の代謝がダメージを受けている」
ということを、一口で要約するなら、<うつろな心の命の営み>となる。
 むかし流に言いかえれば、<疎外>といってもよいだろう。となれば、さらなる論議の展開については、アカデミックな諸先生のご見識にお願いしよう。
 ただその際いわゆる進歩主義はごめんこうむりたい。それは金利かせぎを至上命題とする<円魔のジョーク>? の疑いがあるからである。
 蜂谷章子さんの問題にもどる。夫の隆さんの手記によれば章子さんの病歴は次のとおり。

 章子はもともと身体が弱かった。本人が残したメモを見ると、幼児結核(6歳)、扁桃腺摘出(11歳)、胆のう炎(17歳)、肝炎(21歳)、肝炎(23歳)、胃、十二指腸かいよう(24歳)、肝炎(31歳=入院)、その後慢性胃炎が続き、胃、十二指腸かいよう(37歳)とある。31歳の時の肝炎は、長女の出産3ヵ月目であった。章子はいつも病気と付き合っていたのである。こうした経過を見てみると、章子がガンになるのはある意味で必然だったのかもしれない。(前掲書110頁)

 ここで隆さんは「章子はもともと身体が弱かった。(中略)章子がガンになるのはある意味で必然だったのかもしれない」と言っている。それは一つに、妻を失った深い悲しみを断ち切りたい思いから発している言葉であろう。
 しかし、これまで探索してきた「ガン発生のメカニズム」から見直すと、病弱に見える章子さんの病歴は、実は「ガン発生のプロセス」そのものであって、病弱だからガンになったのでなく、今日、的私たちが共有している<生き方そのもの>によって病弱の身となり、そして、やがてガンが発生した、と見ることができる。
 1947年生まれ東京育ちの章子さんは戦後2年目の誕生からまだしばらくの間は、<欠乏>時代の幼児期を過ごしたことになる。最初の病歴の幼児結核はそのためであろう。章子さんも「幼児期に結核をやったことのある私は、小さい頃から肉や魚をよく食べさせられた。甘いお菓子も大好きだった。そのせいか、よく故障が起きる子で」と述べでいるが、<欠乏>時代の結核の反動で人より一足早く<過剰>時代の食生活に入っていた。必要以上の過剰な栄養は、過ぎたるは及ばざるより悪しとなって、過剰な有害刺激と化し「肝臓の毒化の長い時間」のスタートを切ったのである。扁桃腺(11歳)がどうかかわるかさだかではないが、リンパ腺もダメージをうけるのだから無縁ではなかった。胆のうは肝臓と深くかかわる器官であり、胆のう炎(17歳)以降の肝炎、胃、十二指腸かいよう、慢性胃炎を含むすべての病気は、ゲルソンの指摘する、
 「だからガンは二つの側面、総体的面のほうは、肝臓が害されると同時に消化系全体がダメージを受けることによって、きわめて遅々と進む、目に見えない現象である」と見てよいだろう。それまでの食生活が、ガン発生の要因であることは、章子さん自身の反省によっても確認した。しかレ、遇剰な栄養の食生活や有害な食品添加物は、間違いなくガン発生を誘因するものだが、なお元凶はほかにあった。これと関連して章子さんは次のように述べている。

 病気がわかる以前は仕事と家事、育児そして活動にと分刻みで追いまくられていた。子どもも小さかったし、病気(肝炎)はするしで本当にいつも綱渡りをしているような状態であった。その時はわからなかった。何度も病気(入院を必要とする)をしたがこりず、とうとうガンになっていた。
 しかし、そんな生活をイヤイヤやっていたわけではないのだ。「自分はこれだけのことをこなしている」という充実感もあったし、誰に無理強いされたものでもなく、<好きなこと>をやっていたのだから。ただ、あの頃、「自分が本当にこれをやりたいのか?」などと考えたこともなかった。そうした忙しさの中に、実は自ら自分を追い込んでおり、そしてまた忙しくなければ不安だったのかもしれない。(中略)
 体も心も自然のリズムや環境とあまりかけ離れた生活をしていると必ず病気になる。(中略)
 人間は何のために働くのだろう。都会にあってもわずかに残る四季折々の変化を感じるひまもなく、太陽の恵みを享受することもなく、ひたすら蛍光灯の下でコンピュータとにらめっこしている。(中略)
 私は「ガン患者の半分以上が『心』に何かの問題を抱えている」という持論をもっている。思えば人は自分の『心』に正面から向き合いたくないために忙しくしているのかもしれない。(中略)
 活動していた頃、私は女性の問題にずっと関わってきたわりには思考様式も行動バターンも男性的だった。常に<理論>が先行し、「こうあらねばならない」と自分にも他人にも押しつけていた。自分の本当の感じ方とか気持ちをおし殺し、頭だけで物事を判断し、人を評価していた。自分の身体の声も本当の心の声も聞くのが恐ろしかったのかもしれない。(前掲書6~11頁)

 1990年「労働運動研究」3月号で発表の「からだとこころの声に従って生きる」と題した文章の一節である。「ガンと道づれ」5年目の正月を迎えた頃に書いたものであろう。この年の3月~5月、手術のため入院している。ガンの正体がようやくわかりかけていたのである。だが、もう一息だけ遅すぎた。
1988年7月のガン転移後からここまで1年半以上の期間をどうしていたのだろうか。意欲的な取り組みの記録はない。確認できるのは、穂高養生園滞在療法、ショウガ湿布、里芋パスタ療法の継続。隆さんからの情報では気功などもやったらしい、というのだが……。
 なぜ、「からだとこころの声に従って生きる」ことを、ガン療法そのものの実践に適用できなかったのか。
 1989年7月27日、隆さん宛のバースデーカードに、次の詩が書かれてあった。
  風に吹かれて
  ふわりふわり
  大きな空に
  飛んでいきたいな
 隆さんは、「それはいつもの心の内面を示し訴える手紙と、全く異なるたわいもない詩であった。(中略)私は涙があふれてくるのを止めることができなかった。私には章子がぼろぼろの肉体から離れ、魂となって自由になりたい、といっているようにも思えたからである」という。
 蜂谷章子さんは上智大学出身。1970年卒業(学園闘争の世代)。就職先はパンアメリカン航空。一流大学-一流企業のエリートコース。だがこのエリートコースこそ、実は、<きわめて遅々と進む目に見えない>「ガンと道づれ」のコースだった。蜂谷章子さんの前記引用文の中から、次の言葉を拾ってみた。
・本当にいつも綱わたりをしているような状態であった
・「自分が本当にこれをやりたいのか?」などと考えたこともなかった
・実は自ら自分を追い込んでおり、また忙しくなければ不安だったのかも知れない
・体も心も自分のリズムや環境とあまりかけ離れた生活……必ず病気になる
・四季折々の変化を感じるひまもなく、太陽の恵みを享受することもなく
・ガン患者の半分以上が『心』に何かの問題を抱えている
・人は自分の『心』に正面から向き合いたくないために忙しくしているのかも
・自分の本当の感じ方とか気持ちをおし殺し、頭だけで物事を判断し、人を評価
・自分の身体の声も本当の心の声も聞くのが恐ろしかった
 そのすべてが、ゲルソンの指摘する「体全体の代謝の質を低下させていくような多くの有害な要素が蓄積され、肝臓の働きが次第に阻害された結果、出てくる病気」
 つまりガン発生の元凶であった。

 いま教育論にふれるような資料はなにも持ち合わせていない。したがって発言はさしひかえたい。ただ、科学を金科玉条とし、その絶対化を土台に築き上げた巨大なアカデミズムの殿堂は、人々の命の営みの現場を見失っているのではないか。科学は、いわば仮説のフレームの中でのみ通用するものであった。仮説のフレームで限定される命の営みの現場は、ごく限られた自然の一部にすぎない。問題は、それを忘れて自然を逆手にとり支配するつもりになって、こともあろうに競争原理に拍車をかけての暴行におよんだ。科学それ自体にとってもルーツであったはずの、みずみずしい命の営みの現場を、メッタヤタラと破壊・汚染してしまった。そのツケがまわってきたのである。そのゆき場のない思いを蜂谷章子さんは、
  風に吹かれて
  ふわりふわり
  大きな空に
  飛んでいきたいな
 とうたったのではなかったか。
 章子さんと電話でよく遊んだという半田万里さんは、次のエピソードを伝えている。

 91年2月に、カナダのヒーラーで、魔女のサリーちゃんみたいなスージー・ブラウンが来たとき、章子はスージーのブレス・ワークという、呼吸を使い自分を解放するセラピーを何度か受けた。
「自分でもびっくりするくらい出たんだよ。あんなに怒りのエネルギー溜めてるとは思わなかった。ギャーギャーわめいたらスッとしたわ」。(前掲書244頁)

「自分でもびっくりする」溜めた「怒りのエネルギー」は、もの心ついた頃からのトータルな命の営みによるもの。ついでに「ギャーギャーわめいたらスッと」しないで、もう一度この世をしかと見すえるための「怒りのエネルギー」として欲しかった。自分自身の<生き方そのもの>をどんでん返すエネルギーとして欲しかった。そして、なによりも「自分を治すガン療法」の心の<活性>源にして欲しかった。
 まだまだ女ざかり働きざかりという、若い命を失ってしまったのである。
 さらば、すぐれた知恵・勇気・意志を持ち、夫、子供たち、親姉妹はもとより、多くの友人やまわりの人々から愛されて、懸命に生きたチャーミングな命の営みを、よってたかって殺したこの世の<善意の殺人>鬼どもを、いかに裁くか。

理解されていないゲルソン療法

 「世界の組成(きめ)は同じ」(メルロ=ポンティ、フランスの哲学者1908~1961)。
 世界の組成(きめ)が同じなら、素粒子レベルの存在が「粒子でもあり波動でもある」ことは、人間の存在もまた同じと見てよいことにならないか。
 粒子としての存在<=身体>、波動としての存在<=心>、と見られないか。
 また、粒子と波動との関係は、表と裏というよりは、ゲシュタルト理論の<地平と図の関係>としてとらえれば、時に粒子としてしか見えない、また時に波動としてしか見えない、同時には見られない粒子と波動との関係も、すっきりと納得できることになろう。
 つまり、粒子(身体)を図として見る時は、波動(心)は地平に沈んで見えなくなる。波動(心)を図として見る時は、粒子(身体)は地平に消えて見えなくなる道理である。
 この世は異常な粒子<=ガン>の大繁殖、さらば、オコレ! 波動<=心>。
 これまで延々と述べてきたことを、物理を応用してとらえると、こうなった。
 専門分野のミクロの視点の呪縛から解き放され、自由な遊びを楽しむならば、まだまだオモシロイことはいっぱいありそうだ。だが遊びはまたの機会としよう。探索にもどる。
 ゲルソンはガン治療について次のように述べている。

 ガンという病気は、全体の代謝がいろいろな形で退化して起こる病気だろうという見当がつく。そしてこれは他の多くの退化病の場合と似たものなのだ。
 そこでガンの治療は、以下の三つの基本的な点に焦点を当てるべきだということになる。
 1.体の解毒作用を徹底的に促し、それを続けさせること
 2.できる限り肝臓機能の復活を図ることを含めて、腸の代謝全体を正常に戻すこと
 3.炎症反応と治癒能力を高めるための腸管外の代謝全体を、回復させること
 治癒が成功するか否かは、肝臓の代謝機能を回復させられるか否かにかかっている。(前掲書73頁)

 ゲルソンは、肝臓をことのほか重視している。肝臓の重要性については、私たちが日常使う言葉の中でもいろいろ示されているところだ。たとえば、肝心、肝腎、とは肝心かなめのもっとも重要なものとして表現される言葉。また、肝胆という言葉は、
 肝胆相照らす=互いに真心を打ち明けて親しく交わる
 肝胆寒し=怖れてぞっとする
 肝胆を砕く=心労のかぎりをつくす
 というように使われ、<心>とストレートに結びついでいることがよくわかる。そう言えば、「肝をつぶす=びっくりすること」というのもあった。おそらくそれは、数えきれないほど沢山の人たちの日常生活の体験から確認されたことであろう。ゲルソンの重視する肝臓は、文字通りの肝心かなめの<心>と結びついていた。ゲルソンは、肝どころをしっかりとつかんでいたのである。
 ゲルゾン療法は、むつかしいとも言われている。多くの人々に有効性の実績が確認されていながら、肝心な<お医者さん>がよくわかっていないらしい。
 「ガン療法なんでもOK」病院の院長さんにしてそうだから困ったものだ。
 「このような特殊な方法は、原法に忠実におこなわなくては効果は生まれません」(『ガンを治す大事典』241頁)とは情けない。原法を原理的にしっかり理解しないままに「このような特殊な方法」とは不勉強。ゲルソン療法は、原理的に理解したうえで、自分自身にどう取り入れるかが肝どころ。それを、本に書いてある例を盲信的に敢り入れ、「原法に忠実」にやっているのでは、うまくゆかないほうがむしろ当り前なのだ。
 ゲルソン『ガン食事療法全書』は、もともと世界各国の医者からの問い合せに対応して、医者のために書かれた本であった。それゆえ、素人がついでに読んでも、わからない点がたしかにある。だから<お医者さん>こそしっかりと読み込んで欲しいのである。それがプロである<お医者さん>の仕事ではないか。
 1992年、『月刊Asahi』10月号は「保存版大特集〈自分で治す癌〉予防と療法」と題し、現代医学以外のガン医療を特集した。そこにほ、3人の〈自分で治す癌〉療法の成功例が紹介されていた。
 その一人、星野仁彦さん(45)は神経精神科の<お医者さん>であった。
 1990年3月 結腸ガン手術。手術の際リンバ節2力所の転移が確認された。
 1990年10月 肝臓2ヵ所に転移、高濃度のエタノールを患部に注入する新しい治療法により、転移肝臓ガンを殺すことに成功した。しかし、また必ず出てくるガン対策として抗ガン剤を拒否して、「一番理にかなっていると思えたゲルソン療法」をはじめたという。
 本に書いてあるゲルソン療法は、1時間ごとにニンジンジュースを飲んだり、4時間ごとにコーヒー浣腸をやったりなど、大変きびしいメニューだが、星野先生は自分なりの判断で、いわば「星野版ゲルソン療法」を独自に工夫した。その療法は次の通りである。
  1.油脂類と動物性タンバク質は一切とらない
  2.塩分を極力制限する
  3.たくさんの種類の野菜ジュースを大量に飲む
  4.ビタミンA、Cを大量にとる
  5.食品添加物の入った食物や、アルコールは口にしない
 野菜・果物ジュースは8種から10種類を使用して朝晩2回、約300㏄ずつ、をつくって飲んだ。それまで大好物だった肉や油っこいもの、酒、塩辛いものを一切止め、新鮮な野菜・果物と豆やイモ類を主とする食生活に転換した。療法を始めてから約2年、検査ではまったく異常なし、仕事も普通にこなしている。
 肝臓内の2ヵ所以上に転移したガン患者は5年以内に死亡(国立がんセンター統計)とのことで「あと3年、何事もなければ、西洋医学の治療法よりもすぐれていることが私自身の身をもって証明できる」と星野先生は語っている。<お医者さん>自身が身をもって実証してくれたなら、なにより心強い味方となろう。
 ゲルソン療法のユニークな治療法の一つ、<コーヒー浣腸>を取り入れなかったのは、星野さんが結腸ガンの手術をされた事情によるものではないかと思われる。自分の体の状況に合わせて工夫するのは、ゲルソン療法ならずとも当然の配慮であろう。ゲルソン療法はけっして万能ではない。次の場合は効かない。
  1.肝臓が半分以上冒されている時
  2.消化器官の働きがいちじるしく衰弱してしまっている時
  3.この療法に必要な消化器官を手術で切除してしまった時
  4.放射線をかけすぎてしまった時
  5.化学療法をうけている時
 また、ゲルソン療法は白血病には効かないと言われている。
 なお詳しくは『がん療法百科』ジュディス.グラスマン、上野圭一監訳・解説、萩原裕子訳、日本教文社、(上巻<マックス・ゲルソン療法>の項参照。
 現在日本でゲルソン療法を積極的に紹介しているのは、医聖会栄養療法(千葉・鴨川)だけのようである。『ゲルソン・ガン食事療法全書』訳者・今村光一氏が主宰しているところ。同氏は有機栽培農園のオーナーでもある。『ガンを治す大事典』帯津良一編著・二見書房〈医聖会栄養療法〉参照。
 実は、世界的に見てもゲルソン療法に公然と敢り組んでいる病院は2ヵ所しかないようだ。その一つは、ゲルソン博士の遺志を継いだ娘のシャーロッテさんが経営するメキシコのゲルソン・クリニック。もう一つはイギリスのブリストル病院。蜂谷章子さんは、最初の手術の後でブリストル病院にゆく計画を立てたが、二度目の手術のためやむなく中断している。なぜゲルソン療法は今なお一般には普及しないのか、という当然の疑問となろう。それについては、ゲルソン自身が次のように語っている。

 医学の歴史を見ると医学の考え方そのもの、および実際の医療技術に革新をもたらしたような医学の改革者たちが、苦渋の道を歩んだという実例が多い。おわかりだろうが、それまで自分が続けてきた治療法を喜んで変えようという医者は、きわめて少ないものである。大部分の医者は自分が習ったとおりのことや、教科書に書いてある治療法を、多かれ少なかれ操り人形のようにくり返しているだけなのだ。そもそもの出発点においては、医者は何よりも患者のために役立ってやりたいとは思っている。しかし彼は、医学界に認められでいない治療法を自分の患者に実際に使うことには足踏みする。科学、芸術、技術の歴史は、新しい考えはどんな考えも、激しい抵抗に出会ってきたことを教える。そして改革者で自分の考えが生前に世間の受け入れられるのを、自分の目で見られた者は残念ながら少ない。文化の領域での発展が何世紀にもわたる長い期間をかけて、きわめて遅々としてしか進まない一つの理由は、このような事情により、発展が力によって抑えられるためである。(前掲書8頁)

自力本願こそがゲルソン療法の真髄

不当に弾圧されるゲルソン療法

 1946年夏、アメリカ合衆国議会は、医師会の反対によって、ゲルソン療法を公認して普及させるための、ペパー・ニーリー法案を否決してしまった。以来、半世紀におよぼうとする今日にいたるまで、ゲルソン療法は、ガンの非通常療法とか、代替療法よばわりされて、まるでインチキ療法のたぐいのように不当な差別を受けつづけてきた。
 1958年、ニューヨーク州医師会は、ゲルソンに対して、医師免許停止を宣告する。差別のみでは飽き足らず、ついに不当な弾圧にまでおよんだ。ゲルソンはその翌年、80歳で亡くなっている(80歳になる高齢者を医師免許停止とは、異常ともいえる非道な医師会の仕打ちではないか)。
 あの偉人シュバイツアー博士は、生涯の友だったゲルソン博士の死を悼み、次のように讃えている。

 私はゲルソンの中に医学史上で最も傑出した一人の天才をみる。彼の基本的な考えの多くは、ゲルソンの名前を冠さずに受け入れてきている。だが彼は自分に不利な状況の中で不可能と思えることを達成した。彼が残した遺産は人々に注目することを迫り、やがて彼に正当な地位を与えるものになろう。彼の治療で治癒した人々が、ゲルソンの考えの正しさを証明するだろう。(前掲書489頁)

 シュバイツアー博士の予言通り、アメリカ議会で否決されたゲルソン療法は半世紀を経て、アメリカならぬ日本で、その療法の正しさを実証した。
 平野良平は厳正に宣誓して、ここに、「ゲルソン療法」によりガンを消滅させたことを証言する。
 おそらく、同じようにゲルソン療法の正しさを立証する人々は、この半世紀の間に、全世界にまたがって、かなりの数に達しているであろう。それでも今なお一般に認知されていないのは、前述の差別と弾圧のためだ。それに加えて、シュバイツアー博士の指摘する、「不利な状況の中で不可能と思えることを達成した」という、ゲルソン自身の人柄に由来するものと思われる。
ゲルソンは、現代医学のガン治療が手をつくしてどうしようもなく投げ出したガン患者を、あえて引き受けて「ゲルソン療法」を施している。そのため効を奏しなかった人たちも少なくない結果をまねいた。それでも効を奏して生きつづけることに成功した人たちも数多くいるのである。
 ゲルソン『ガン食事療法全書』で成功の実例として紹介しているガン患者50人は、そのすべてが末期ガンの人たちであった。ゲルソン療法は、食事療法なのだから現代医学の「通常療法」でさんざん体を痛めつけられすっかり衰弱させてしまってからでは、効果を発揮させるのは、きわめて不利となる。それでもゲルソンは投げ出さずに前向きに取り組んでいた。その点をシュバイツアー博士は賞賛しているのである。末期ガンをも治す「ゲルソン療法」なら、他のガンは言うまでもなかった。ところが、ゲルソンが実例として、末期ガンばかりを紹介しているものだから、まるでゲルソン療法は、末期ガンのための療法のように誤解されている面もある。それにゲルソンは真面目な研究者肌で、前述のとおり医者向きに書いているためでもあろうが、専門的で一般にはとっつきにくい面もたしかにあった(〈お医者さん〉でもついに理解できないほどなのだから)。
 だが、ゲルソンに対するシュバイツアー博士の最高の賛辞、「私はゲルソンの中に医学史上で最も傑出した一人の天才をみる」は、間違っていなかった。
 ゲルソン療法を否決したアメリカ議会、そして医師会は、その不当性をきびしく問い直されるにちがいない。多数決原理による民主主義の悪しきモデルとして、裁かれる時を迎えるであろう。
 そこでは、救われるべき命が、みすみす失われていったのである。厖大な数の死者を招く結果となっているのである。いまにつづいてガン死した人たちは、どのくらいの数にのぼっているだろうか。あるいは、戦争時の死者をすでに超えているのではないか。あの時、アメリカ議会では一体なにがあったのだろうか。これは、ドキュメンタリーの格好のテーマとなろうか。
 ゲルソン療法とは、どういうものなのか。
 その考え方のおおかたは、これまでさまざまな形でガンについて述べてきた、そのすべてと見ていただきたい。それらは、シュバイツアー博士のご明察通りに、「ゲルソンの名前を冠せずに受け入れてきている」ものだからである。
 なぜ、ゲルソン療法は、今なお不当な差別を受けつづけているのか。なぜ不当な弾圧までされたのか。その答えは、これまた、まったく同じ理由にもとづく。
 ゲルソン療法を認めてしまっては、医者はもうからなくなってしまうからである。
 ドル箱のガン医療(高死亡率、患者急増、高額医療費で大繁盛)に医者の出る幕がなくなっては、医者は自分たちの存在を根底からおびやかされることになる。医師会がシャカリキになって否定する理由がここにあった。80歳の高齢な医者の免許取り消しという常軌を逸した行為は、「ゲルソン療法」の本が出版されたことへの仕返しだった。これはもう、宗教戦争さながら、といってもよいだろう。半世紀におよぶ冷戦が、いまなお続けられている。しかも、多勢に無勢、ゲルソン陣営は、勝ち目の見通しがまったく持てないまま苦戦を強いられているようだ。それでも、ゲルソン療法は地道に着実な成果をあげつづけている。
 いまゲルソン療法はアメリカから追われ、カリフォルニアに近い、国境に接するメキシコのティファナの町に建てられた病院で、シャロッテ・ゲルソン(ゲルソンの娘)らの医師団により継承されている。世界中から訪れるガン患者及びガン医療関係者は跡を絶たないという。そこでは治療するというより、ゲルソン食事療法を体験的に知ってもらうための実践的指導が行なわれているようだ。体験入院して、その方法を会得すれば、後はどこにいようがいまいが、「ゲルソン療法」は自分でやればよいのである。他には前述したイギリスのブリストル病院である。
 しかし、メキシコやイギリスまで行かなくても、ゲルソン療法をとり入れることができる。それがまたゲルソン療法のよい点でもある。誰でもその気になって真剣に取り組めば、ゲルソン療法の受け入れは可能だろう。ただ、ゲルソン療法が、これまでの療法と大きく違うと思われるのは、他力本願ではダメ、ということである。ゲルソン療法の基本的な考え方を理解した上で、どうするかは、一人一人微妙に違うのだ。これまでの自分の生き方や、毎日、何を食べ何を飲むかは自分で決めてきたことだ。その具体的内容は、誰よりも自分自身が一番よく知っている。その生き方や食物をいかに変えるか、となれば、やはり自分以外にはいないのだ。
 ともあれ、ゲルソン療法はこれまでの医者だけを頼みの綱とする他力本願では、かならず失敗する。第三者からのまた聞きであったり、生半可な取り組みで失敗する例も、けっして少なくない。なんでもやってみよう方式の八方美人型も失敗する。そこにも自分はないからだ。自分の命は、自分自身の〈自立の知恵〉で守ってみせる、自力本願に徹しなければダメだ。しかし、それ故「ゲルソン療法」は、画期的な意味を持つ療法として脚光を浴びるものとなるだろう。それほ、なだいなだ氏のいう「他者のものではなくなった、おらが顔をそのなかにうつしだすことのできる自分たちの医療」(『お医者さん』中公新書、199ページ)、つまり、<おらがゲルソン療法>の誕生だ。

おらがゲルソン療法

 では、平野良平の〈<おらがゲルソン療法>について述べよう。
良平は「ゲルソン療法」からニンジンジュースとコーヒー浣腸をメイン療法として取り入れた。
 ニンジンジュースは、生(なま)のニンジンをすりおろしてしぼったもの。体調を見ながら逐次量を増やしてゆき(下痢などをする場合もあるから)、一回600グラムを基準とした生ニンジンからしぼりとったジュースを食前1回、1日3回飲むよう定量化した。ニンジンは有機栽培のものを、週契約で12キログラムずつ購入した。ゲルソンが特に注意していることは、ジュースはつくりたてを飲むこと、つくりだめは無効。缶ジュースやびんジュースはむろんダメ。ミキサー等を使用しては養分を破壊してしまうのでこれも使用しないこと。手間がかかって大変だが、ガンは命がけ、多少の手間は覚悟するのが当然だろう。あの大根おろしをつくるおろしがねを使ってすりおろしたものを布(ガーゼでもよい)で包み圧搾器でしぼる(手でしぼってもよい)。1回の手間は30分前後である。慣れるまではやっかいだが、出来立てのニンジンジュースは、うまい! 手間がかからなければ、いくらでも飲みたいほどに、おいしい。ゲルソンは、リンゴなどをまぜるように指示しているので、最初その通りにしてみたが、リンゴなど入れないほうがよいように思われた。これは体験としての良平の判断であった(体質や病状の違いなどによるものかもしれないのだが)。
 ニンジンジュースによって実感される体調の変化は、小水の出がきわめて良くなり回数も増える。また、1ヵ月位すると、全身がニンジンの色素に染まって黄色みをおびてくる。だが黄疸とは無縁。好転反応=フレア・アップ、といわれる浄化・活性化へ転換の症状(炎症反応)の一種か? すこし経つと不思議と消えてしまう。さわやかで快調な気分となってゆくのは間違いない。体の中から毒素がどんどん体外に排出されてゆくように思われてくる。それに他人からはっきりと認められるほどに全身に活力が戻り元気となる。だが、1ヵ月位で効き目が出たなどと安心するのは早い。体質改善には最低6ヵ月はかかるらしい。ゲルソンは、肝臓をノーマルに戻すには1年を覚悟せよ! というが、自分の判断が第一。二番目に、血液検査とか、エコーとか、CTとか、たまには現代医学のお世話になるのも悪くないだろう。順調か悪化しているかの検討の参考にはなる。
 ジュースをつくる手間が大変なのでいろいろと調べ、国産や外国製の各種の機械を買ってみたが、前述の大根おろしがねが最高。機械はつくるのは早くても後始末が大変。分解してその都度手入れをしないとくさくなる(生ニンジンはくさりが早いため)。この点おろしがねは、水道でさっと洗って終わりだ。トータル時間でみると、機械のほうが手間がかかることになった。それに、味の点でも、おろしがねですりおろしたジュースが一番である。何万円や何十万もする機械よりも、時におろしがねのほうがいい、というのもいろいろ考えさせられるところであった。しぼるための布は、その都度毎回洗うのだが、そのまま干したのではやはり、くさくなる。ゲルソンは煮沸するように指示している。だが、毎度煮沸するとなるとこれまた大変だ。そこで、冷凍庫に入れ冷凍してしまった。手間と体調をみながら、お金との相談も多少あるが(酒や肉よりずっと安い)、良平の場合1回600グラム(ジュースにすると半分の300㏄位)を1日3回、月に約50キログラムのニンジンを使用した(良平は全治した今も、おいしいのでやめられず1日1回楽しみなからつくって飲んでいる)。
 コーヒー浣腸についてゲルソンは、次のように語っている。

 体から有害物を追い出し体を解毒することは最大の重要事で、とくに治療の初期には大切である。だから昼も夜も何回も浣腸するのが絶対に必要である(私は平均してコーヒー浣腸を、4時聞に1回ずつやらせている。またひどい痛み、吐き気、神経の緊張やふさぎなどのある患者には、もっとやるようにしている)。(中略)
 ガンがより進んだ患者では、体は一層ひどく毒されているし、腫瘍やぐりぐりが分解して体に吸収される時には、体はさらに毒されることになる。ずっと以前、私は何人かの患者を肝性昏睡で死なせた。この死は、ジュースや浣腸などで有害な物質をひんぱんかつコンスタントに体外に排出させることがどれだけ大切かを、私自身が知らなかったゆえに、浣腸を怠ったせいだった。(前掲書236~237頁)

 良平は、コーヒー浣腸を朝と夜1日2回やることにした。1回に1時間はみておかなくてはならないから、これまた手間が大変である。ゲルソンは、病状のひどい人には、できるだけ回数を多くすることをすすめている。2時間おきという処方まであるほどだ。しかし、これではかかりっきりになってしまうだろう。よほどひどい病状の場合でもなければやってはいられない。病状と効果と手間とをにらみあわせながら、やはりここも自分で決めるのがよい。
 インスタントコーヒーではダメ。豆からひいたコーヒーを1回ティースプーン2杯(10グラム)ぐらい、通常のコーヒー1人分弱を600㏄の水で、3分煮立てた後15分間弱火で煎じる。かすを濾紙でこしてとり体温までさましてから使用する。コーヒー浣腸専用の浣腸器(点滴方式と似ている器具)を使用する。コーヒーを体内に入れてから15分間ほどは我慢していなければならない。リラックスして横になっていればよい。これに関し、ゲルソンは次のように述べている。

 最も効果的に浣腸をするには、右脇腹を下にして寝て両足は曲げて腹に寄せ、浣腸液をうんと大腸全体に吸い込むために、深く呼吸するようにする。浣腸液は10~15分とどめておく。私の経験では10~12分のうちに液の中のカフェインは、ほとんど全部からだに吸収される。そしてそれが肛門の静脈から門脈の静脈を経て肝臓に達する。患者は、コーヒー浣腸は腸の働きをよくするためではなく、肝臓の働きを促すためのものだということを認識している必要がある。(前掲書237頁)

 ゲルソン療法の基本的考え方は、<浄化>ということだ。からだ全体の代謝機能をいかに<浄化>するか、ニンジンジュースもコーヒー浣腸も、そのための方法である。いわば、身体をいかにリフレッシュするか、ということである。それは肝臓、腎臓、つまり肝腎かなめの働きを<活性>化する。その効果は、自分自身の感じとして確認することができる。たしかに、さわやかな気分となり全身に元気がよみがえる。現代医学のガン療法が、心身を痛めつけるのとは、まったく正反対のやり方だ。心身が活性化し気分はきわめて壮快、それでガンが治ってしまうなら、こんないいことはあるまい(好転反応のため一時的に不快感が生じる場合もあるが)。漢方薬なども含め薬は一切なし。だが、折角体をリフレッシュしても、それまでの暮らし方、特に食生活がそのままとすれば、ふたたび、体は汚染されてしまうことになる。
 だから、ニンジンジュースとコーヒー浣腸だけで治るなどと早合点してはいけない。いままでの生き方、特に食生活をいかに変えたらよいかが、なにより先立つ緊急の課題なのだ。
 良平は、真っ先に酒をやめた。タバコは十数年前にやめていた。毎晩ダブルのウイスキーを水割りで3杯ぐらいやっていたので、良平にとって酒をやめるのはかなりの低抗をともなった。病気にかかるまでは、好きな酒をやめるくらいなら死んだほうがましと思っていたが、いざ死と向き合ってみると、やはり酒より生きることを選んだ。酒をやめたら高かった血圧(180~100前後)が、一挙に、正常な血圧(126~70)に下がってしまった。百薬の長といわれても、過ぎたるは及ばざるよりも悪し、の百害の長と化していたのであろう。良平は高血圧で、それまで5年くらい前から漢方薬で治そうとして、目に見える効果はなかったのに、酒をやめたとたんに正常化してしまったのである。酒をやめてから数ヵ月間かなりの欲求不満におちいったが、体の汚染予防には効果てきめんだった。シオ、サトウ、アブラ、カガクチョウミリョウなどは極力なし(テンカブツは、むろんご法度)。
 白米は玄米にかえた。父親ゆずりで幼い頃から良平は毎日肉ばかり食べているような偏食であったが、いっさい肉食をやめることにした。新鮮な野菜をメインとしたゴマやワカメ類を常用した。トーフや納豆やノリなども心がけて食べている。酒をのみ、肉類を常食としていた頃にはわからなかった、菜っぱやトーフなどのホントのおいしさがとてもよくわかるようになった。やはり体質が変わったのだ。酒の味は、5年になろうとする今も、残念ながら忘れられないで、つき合いの宴会の時などには頭にくる。肉はまったく食べる気がしなくなった。魚を含めて動物性のものよりは植物性のものが、おいしいと思うようになってしまった。この変化には、誰よりも良平自身がびっくり。
 ゲルソン療法ではなかったが、玄米菜食の食事療法の基本を体得するため、良平は有給休暇を活用して「食養内科」のある病院に一週間入院した。一週間の食事療法の体験入院をしただけで、仕事はこれまでどおり、いや、最悪の時も考えて、良平はそれまで以上に仕事に身を入れた。そのおかげで所期の目標のとおりに仕事を成功させることができた。会社には、家族会議の直後、ガンであることを打ち明けてあった。昼食時にニンジンジュースを社内でつくって飲むことは、事前にトップの了解をとっておいた。
 社内で昼休みにつくるニンジンジュースは、かなり目立ったようだ。「あんなものでガンが治るはずはない、気休めだよ」とのかげ口も、良平の耳に入ったが。半年ぐらい経った頃、元気いっぱいになった良平の姿を見て、今度おどろいたのは、カゲ口をきいた人たちだった。
 仕事9時間(昼休み1時間、ニンジンジュースづくりと食事)、通勤往復3時間、ニンジンジュース朝夕計1時間、コーヒー浣腸朝夕計2時間、朝夕食計2時間、洗面入浴等計1時間、睡眠6時間、総計24時間。
 かなりハードなスケジュールではあったが……(ときには時間外勤務や外泊出張もしたけれど)。
 「メス ホウシャセン ドク ガンイデンシ」暴力療法一切無用。
 闘病などという肩肘を張った力みを知らない平和な暮らしの中で、良平はたしかに「ゲルソン療法」によってガンの完全消去に成功した。

 念のため、申し添えておきたい。
 良平の<おらがゲルソシ療法>を盲信してはいけない。

心理療法

 心理療法を、良平は信じていなかった。ガンを心の働きで治すなどということは、思いも及ばぬことに属していた。それが成り行きで、心理療法をうけることになったのである。
 食事療法を体験するため1週間入院したことは前述のとおり。その折、院内の先生から資料をもらった良平は、そこは好奇心からだが、「心理療法とはどんなものか、一度試してみよう」と思ったのである。だから、最初のうちは、なんの期待もしない軽い気持ちで受けにいった。ところが、だんだん興味をひかれ、のめりこんでゆくことになった。なにが魅力か、というと、意識ではない潜在意識、つまり無意識の存在を、実際に体験として思い知らされたのである。無意識は、とっくに知識として知っていても、あるいは夢として体験していても、まったくといってよいほどふだんは無意識など気にしないで過ごしている。気にしないから無意識なのだが。どころが、催眠術をかかられたわけではないし、意識は鮮明なのに、その意識を乗り越えて、白昼堂々と無意識が、心理療法の先生の示唆に触発されて、さまざまな反応となって躍り出てくるのである。
 当初は1時間半を単位に、毎週土曜日に受けていた。3年ほど続け、あと1年ぐらい月1回にして続けたが、その詳しい内容を話すことはできないほどに、良平にとって不思議な体験であった。だが、「自分を治すガン療法」にとって無縁でないことは確かだった。ガンが治るというよりも、ふたたびガンを発生させないために、心理療法は重要な役割を担っているといえようか。それ以上に、良平にとって得難い体験として実感されたのは、「無意識の活性」とでもいうべきものである。良平の無意識は、長い間にわたり眠りこけたままだったのかもしれない。あるいは、抑圧されたまま鳴りをしずめていたのだろうか。
 「無意識の活性」によって、良平の感性は、明らかに変わった。
 美しいものはより美しく感じていとおしさをました。汚いものはより汚く感じて反発をつよめた。それまで良平はクラシック一辺倒で、息子たちの愛好する音楽(ロック)は耳ざわりであったのに、まるで原初の魂がよみがえってくるようなロックのリズムの魅力にとりつかれた。また時折、良平は意識を超えた不思議な衝動におそわれることになった。たとえば、いままで部屋にあって見慣れている絵なのに、なにげなくビュッフェのリトグラフに目をやった瞬間、全身にショックを受けた。それは感動というより、「無意識の活性」としかいいようがないものと思われた。
 実は、このガン療法の記録も、良平に、とって「無意識の活性」とかかわりがあった。
 こんな大それたことに取り組むとは、夢にも思ってみなかったことだ。良平はガンになってからおおいそぎで取り組んで仕上げた、会杜での仕事の成功が、最後のものとばかり思い込んでいた。ところが、どうもそうではなくなってきたのである。これからだぞ、という不思議なほどの意欲が湧いてきたのである。がん探索クラブの情報交流活動をすすめながら、次第にその思いが高まっていった。それがなんだか良平自身よくわかっていない。膨大な情報を整理しながら、「自分を治すガン療法」の記録を書き進めながら、到るところで、ホントだろうか? いいのだろうか? 良平自身おどろきながらの作業だった。「がん探索クラブの情報交流」活動が、「自分を治すガン療法」の記録それ自体が、良平にとっての鮮度の高い新しい体験となっていった。それまでの考え方、暮らし方、生き方を現在進行形で変えてゆくことになったのである。
 もしそれをも心理療法と呼ぶなら、それはもうこれまでの「医療」のフレームをはるかに超えた、異次元のものといわなければなるまい。それを、なんと呼んだらいいだろうか。

「一つの真理」という盲信を捨てよ

 二十世紀初頭、フロイトやユングらによってこの世に出た精神分析ないし心理療法は、まだ若い生まれたての学問の領域である。世界中の研究者がそれぞれ独自の取り組みをしており、研究者の数ほど理論と技法とが錯綜している、といってもよさそうだ(1902年・ウィーン精神分析学会発足)。
 <視点の転換>をすれば、精神、あるいは心とは、それほどに未知な新しい可能桂に満ちた、まだこれからの開発が期侍されている豊かな原野となろうか。
 またそれは、核や環境破壊でガン化した絶望的閉塞状況を浄化し再生する新たな精神活動の胎動と見れないか。これまでにはない異次元の文化、いや文明と言ったほうがよさそうだ。
 新しい文明の誕生が予感されるのである(無意識=精神的未開の原野、と見るなら必然となろう)。
 ところが、この領域の研究者の人たちは、なぜかそういう視点はまだ持っていないようだ。言い出しっぺのフロイトにしてからがそうであった。なにが正しいかの「一つの真理」探求の覇権をめざし〈盲信=猛進〉する競争原理の毒気に汚染されている。ユングとフロイトの確執は有名だが、どちらが正しいかの視点をすてて、そのどちらも正しいとの視点から見直してみたらどうなのか。
 粒子か波動かの、長い間の論争の果てに、ホントは、粒子でもあり波動でもあった。
 研究者の数ほど、さまざまな視点と理論と技法があるとすれば、思いきって、その全部をひっくるめてしまうフレームをもってもいいではないか(不確定性原理、はとっくにあった)。
 それを性欲に限定したり、いや集合的無意識だ、東洋哲学だ、あるいは超常現象にもってゆく……ことさらなにかに限定する必要が、なぜあるのだろうか(ファジー理論は、この頃はやり)。
 この際、思いきって「一つの真理」などという盲信を捨ててしまおう。
ご先祖様は、アダムとイブや、ゼウスや、いざなみの命といざなぎの命や天照大神などに絞りこむ必要などはまったくなかったのである。
 33代前のご先祖様の数は、2(両親)の33乗で85億8993万4592人となってしまう。30歳で子供を産む計算で、たった千年ほど前のご先祖様の数である。
 一人や一対のご先祖様に限定するより、こちらのほうか魅力的でないか(お父さんとお母さんと、どっちが好き? などと野次馬ジヤーナリズムもどきの愚問で子供心を惑わすのはやめよう。どっちも好き! が子供にとってのベスト)。
 自分の存在は、たった千年位前で、世界の人口考軽く追い越してしまうほど厖大な数の先祖の「命の営み」につながっている。この世を一所懸命に生きぬいた、いろいろな時代の、いろいろな人たち、いろいろな生き方、いろいろな考え方、いろいろな思い、喜びも怒りも悲しみも楽しみも……そのすべての人たちの「命の営み」を継承しているのである、と思うほうが楽しくないか。
 なんとも厖大なご先祖様の人数だから、大低のことは経験ずみで先刻ご承知であろう。もしかしたら、無意識とは、そのすべてにつながっているとしたら?
 そう思えば嬉しくなってしまわぬか。
 ホントかウソか、自分自身で確かめようがない、限定された先祖などよりも、たしかに自分の存在につながっていると確信のもてる、こちらの厖大な数の先祖のほうが、ずーっと、心強くはないか。
 もし、無意識の領域とは、そういうこととがかわっているならば、「まだなにもわかっていない」現状といえようか。
 ガンを時代転換のシグナルと見るならば、<視点の転換>いかんによって「心理療法」は、単なる心理、単なる医療のフレームを超えるばかりか、これまでのいかなる既成の文明をも凌駕してゆく、新しい世界文明のパイオニアの栄光をにぎるであろう。
 無知な素人の妄信かも知れないが、「一つの真理」の盲信の呪縛から解き放たれた無意識のなせる技、「心理療法」のおかげである。
 主権者の<自立の知恵>に審判をゆだねよう。