食養内科

食養は日本で生まれた医学  印刷用【PDF】はこちらから>>

 食養は明治時代に石塚左玄が言い始めたことなのです。代表作「化学的食養長寿論」は1896年に発行されました。
 石塚左玄は1851(嘉永4)年に福井県で生まれました。生家は代々藩の侍医で漢方医をしており、左玄も子供のころから漢方医学を学びました。
 1871(明治4)年に上京し、22歳の時医師と薬剤師の免許を同時に取得し、1896(明治29)年に陸軍少将薬剤監になりました。
 左玄は慢性の腎臓病を持っていたため食塩に興味があったのです。当時ヨーロッパから帰ってきた秀才たちがもたらしたものはカロリー論でした。左玄はカロリーゼロの塩に注目し、その頃分析発表されていたナトリウム(Na)とカリウム(K)の数値を多くの文献から拾い集めました。
 その中にノートナーゲルの分析結果があるのですが、NaとKの比率を調べ、それを多い順に並べていったのです。Naを1とした時Kがどうなるかを調べたのです。そうすると、牛乳と羊乳の間に玄米の5.00があったのです。(表 参照)
 この数字は玄米に目覚める一因となったと思われます。玄米は時代の流れから言うと過去の物になりつつあった食品です。白米こそが最も上等と思われていましたから、海軍の兵隊は白米を食べていました。海軍は軍隊の中では上流だったのです。
 そのような時代に玄米食を勧めたのが、石塚左玄なのです。左玄は当時もたらされたヨーロッパの医学、栄養学を学んだ上で、独自の食養理論を作ったのです。
 元々が漢方医ですから、漢方理論には精通しています。その人が西洋医学・栄養学を修得した上で出来上がった理論です。
 左玄は東洋医学の全身的な視野に立った考え方と西洋科学の分析的視野から出て来た情報を取り入れて、独自の理論を作るのですが、この理論は当時の時代背景から言っても流れに逆らっています。当時はヨーロッパの文明を取り入れることが文明開化という時代でしたから、独創的な発想です。
 理論はヨーロッパからもたらされたNaとKの分析を使ったものですから、それは画期的な仕事と言えます。NaとKを対立的にとらえて理論を作ったのは、漢方医学の陰陽理論が背景にあったと思います。当時の最新の科学的知識を用いた理論です。
 その結果、日本人には日本人に合った食生活があることを提唱したのです。
 石塚左玄の食養によって自分の慢性病を克服した人が、この食養を広めてきました。
 マクロビオティックを広めた桜沢如一はその一人です。食養内科の創設者日野厚もその一人です。日本綜合医学会は食養を広めている団体です。



平成25年9月24日 食養内科勉強会資料 長岡由憲