食養内科

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 食養内科を創設した日野厚先生は大正8年、京都の生まれですが、その当時日野家ではケーキをしっかり食べていたようです。父親は同志社大学の教授で、洋風の文化を取り入れた家庭だったのです。
 日野は6男ですが、生来虚弱で慢性の下痢に苦しむことになりました。下になるほど弱い子が生まれ、日野の弟は生後すぐ亡くなりました。
 日野の病気は通常の治療で良くなることはなく、もう治療法が無いと言う時、民間の食事療法と断食を行って病気が治ったのでした。
 民間の食事療法は桜沢如一が提唱したマクロビオティックです。日野はマクロビオティックを続けているうちに、今度は別の病気が発生し、それでもう一度苦しむことになりました。
 マクロビオティックもどこかが間違っていると気が付いたのですが、もう誰も頼る人はなく、誰も教えてくれる人がいないものですから、自分で間違いのない食生活を探り始めたのです。
 ゼロからの出発だったのです。いったい何が正しいのか、何が本当なのか自分で見つけるしかなくなったのです。玄米という物は食べた方が良いのか、それとも食べない方が良いのか、これすら分からなくなります。
 日野はこの疑問を解決するため、自分の体を使って実験研究を始めたのです。それはかなり大胆な実験だったようです。周りの人から、なんでそんなに過激なことをするのかと聞かれたとき、日野は人生は短いのだから、生ぬるい方法では早く結果が出ないからだと答えています。
 研究の結果、これだけは確かであろうと思われる事柄を一つ一つ作っていったら20個できました。それが「生態学的栄養学に基づく食生活」のための20か条です。日野は栄養素の不足も過剰も好ましくないと言っています。これは当たり前すぎるほど当たり前なのですが、現実には健康法として、このようなことを言う人はいません。
 半病人あるいは不健康人は不自然な生活を続けた結果、体質体調を悪くしたのです。不自然な生活と言うのは、いろんな面の不足又は過剰が続く状態です。ですから、体質体調を良くしようとしたら、いろんな面の過不足を解消すればよいのです。このように考えると健康法に極端なものが多いことが納得できると思います。
 不足であれば過剰にすれば良いし、過剰であれば不足にすれば良いのです。昔は栄養不足の人が多かったので、高カロリー、高タンパク質のような食事が健康食だったのです。
今は反対に、食べ過ぎ傾向の人が多くなったので、少食気味の食事が健康食になるのです。
 日野が勧める食養生は中庸と言えます。多くなく少なくなく適量が良いという当たり前のことですが、適量というのは決まった量ではなく、変化するものです。各個人によって変わり、時間の経過と共に変わって行くものです。
 日野の研究過程を見ていると、お釈迦様の修行過程と似ています。釈迦は子供のころ物質的には満たされていて、何不自由ない生活をしていました。しかし精神面では納得行かないことがあり29歳のとき家を出て、家族と別れ、真理を求める生活に入ります。それは乞食と苦行です。苦行の1つに「1麻1米」と言うのがあります。1日に1粒の胡麻と1粒の米のほかは一切の食物を断つのです。
 どんな厳しい修行を行っても真理に到達しないため、釈迦は修行を止めてしまいました。
そして、村の娘から乳粥の供養を受け、その後、座禅を組んで深い瞑想に入るのです。その瞑想によって悟ったと言われています。
 釈迦が説いた教えに「中道」があります。これは両極端ではなく、その中間と言うような意味です。日野先生は食事療法について「道の真ん中を行く」という表現をしておられました。釈迦の言う両極端は快楽主義と禁欲主義です。どちらも人々を悟りに導くものではないと退けられたのです。
 私たちはいろんな欲望を持っています。その欲望が喜びの原因になったり、苦しみの原因になったりします。欲望の赴くままに快楽にふけるのが快楽主義で、反対に欲望を抑えて自分を苦しめることに価値を置くのが禁欲主義です。
 食養内科の食事を食べた時、美味しくなかったという人と、美味しかったという人と両方の人がいます。
 私は長い間、食養内科の食事を食べていますが、初めのころはずっと旨くないという感じを持っていました。健康のためなら少しくらいまずくても仕方がないという思いでした。
それが最近はすごく旨いという感じなのです。私の体も変わったのだと思うし、また食事の内容も少しずつ変わってきたのだと思っています。

平成25年10月22日 勉強会資料
食養内科 長岡由憲