食養内科

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  化学的食養長寿論 自序(現代語訳)

 一定の形があって外から人を殺傷する物、これを凶器と言い、一定の形がなくて内より人を殺傷する物、これを毒薬と言う。
 凶器は衆人の耳目で感じることが出来るから、直ぐにその器の恐さを知るが、毒薬はその道の人を待って初めてその性の恐さを知る。
 そして、その害毒である所は返って凶器より重大で又、頻々多々である。
 ところが人生の薬食二者においても又、このような状況があり、我々が耳目に感じる所は東坡が言うように、
「薬は病を治すが、人を養うことは出来ない。食は人を養うが病を治すことは出来ない」である。
 概括して私の見解を言うと、特に批判する所があると言うわけではないが、もし有形的より無形的の顕証を研究する物学と、隠潜的より顕彰的の隠理を考究する化学とを交互対照して薬食二者に判断を下すと、薬は良く病を治すが、人を養うことはない。しかしながら、食においては、「食は良く人を養い、又良く病を治す」と確信する。それだけでなく、食は人をよく長大にし、食は人をよく壮健にし、食は人をよく長寿にするものである。
 しかし、人生において食物は万代不易の歯形に準ずるべき資性があるにもかかわらず、身外事物の文明開化に同調して、最も頼るべき食物に頼らず、頼るべきではない薬物に頼る最近の情況は、まるで壁裏に柱を置くのに似て、服薬して身体が良くなると物学的に発想して、昔からの習慣で、食は恐れなくてもいいのに、それを恐れて、薬は恐れるべきなのに、それを恐れないのは、要するに、身外事物の開化進歩に伴って、物質的文明を輸入した結果で、時運時勢がもたらしたものと言わざるを得ない。
 仏が言う「実有の見は、即ち転倒の見なり」とか、斯邉査が言う「実体における絶対観は、その実体の変化のために絶対たる能(あた)わざることあり」とか、古人が言う「常を守るは衆人の見、変を知るは智人の見」と言うのは良い言葉である。
その道に入った人を得て、その理その証を洞観することがなければ、転倒の見、常人の見になることを免れることは出来ないであろう。
 魏の文候が扁鵲に尋ねて言った。「兄弟3人のうち孰(いず)れが最善の医を為すか。」答えて言う。「長兄は病において深い所を視る。未だ形有らずして之を除く、故に名前が家より出ない。中兄は病を治するに軽い病気であった。故に名前は村里の門を出ない。若し扁鵲が血脈に針を刺し、毒薬を投じ肌膚間に反応がでる。そして名前を諸侯が聞く。」と
 このように無形は有形に負ける所があるけれど、我が国では上古以来すでに、実質が外観に勝っていたが、最近の開明的な情況においては、外観が実質に勝っているので、「隠を見ないと、微が顕れない」ことになり、修学するにも拘わらず、その隠微の推理を発表しないで、ただ黙々と経過したと言わざるをえない。
 朱子が言う。「人生の霊は知ある事なし、天下の物は理ある事なし」とは良い言葉である。既知から未知に入り、雅から俗に従って「類に触れ之に長ず、即ち自然の理有らず」と言い、「性命の理、変化の道に順ずる所なり」と言うので、化学的の学理に従い、我が国に普及瀰漫する食養上における事物の、知と理とを孜々(しし)勉々(べんべん)推極(すいきょく)達観(たっかん)深思(しんし)顧慮すれば、どうして、その知その理に至らないと言う事があろうか。
 本書は人類の生命を養い寿命を保つ食物が持つ無機塩類が、陰潜的の化学成分なので、従来、我々の栄養上には至大至要であるにもかかわらず、これを軽視して、これを論究する者は少ないので、私は先ずその中のカリウムとナトリウムの二者を取り上げて、これに夫婦アルカリと名前を付け論述したものである。
我が国で起こった事実証例と化学的分析の学理結果とを交互参照して、夫婦アルカリの性質効力を解説すれば、欧州とは地形天候が違う我が国民は習慣の異なる欧州人のように肉食が必要ないと言う、その理論、その証拠を知得するだけでなく、我が国民を化学的食養法に頼らせれば、その調理法も又、趣味の優雅な、風味の善良なるものとなり、十中八九は言行一致することになり、自他安全に高身壮実に、体力優勝に、無病長寿に摂養する体格になるのである。
 それで私は、我々の食養摂生の関する事物の理論は努めて化学的に理解したいと望んでいる。
 ただ、その事物に伴う理論は隠然として存在するけれども、顕然とこれを解説するのは困難であり、証拠立てて話すのも楽なことではなく、私は文章を書くのも下手であり、意志も弱いので、しばしば隔靴掻痒の無念さはあるけれども、ただ熱意を持って、これを叙事体に論究した。
 古人の言葉に「上士は之を歎き、下士は之を笑い、笑わず道を為すに足らず」と言い、「独り学び、友無く、性格は頑固で、見聞も少ない」と言うやむを得ない事情のため、読者はこれを理解して、私の希望は日常の食生活に化学的な学理を応用して頂きたいことである。
 ただこのような新説はすぐに世の中に受け入れられることはないと思うので、無下に捨てられてしまうのではないかと言う不安が無いわけではない。しかしながら、ふだんの生活で目耳に触感する容貌に、事物に、言行に参考になる資料となして、我が国土に正しく適応する天地和合の屈強な体格になり、却病保生の無病長命を望んで食養法をする者があれば、願いが半分以上かなうだけでなく、私の意志を慰めるに十分である。

 明治29年4月                   著 者 識


化學的食養長壽論 自序(原文)

 一定の形ありて外より人を傷殺するもの之を兇器と云い一定の形なくして内より人を傷殺するもの之を毒藥と云う兇器は衆人の耳目に感觸して直に其器の恐る可きを知り毒藥は其道の人を待て初めて其性の怖る可きを識る而して其害毒たる所は反て兇器よりも重且大にして亦頻々多々なりとす蓋し人生の藥食二者に於けるも亦然る形況あるものにして吾人か耳目に感得する所は恰も東坡の言の如く藥能醫レ病不レ能レ養レ人食能養レ人不レ能レ醫レ病と概括して見解を下せは或は間然する所なしと雖も若し夫れ有形的より無形的の顯證を研究する物學と隠潜的より顯彰的の隠理を考究する化學と交互對照して藥食二者に判斷を下せは則ち藥は能く病を醫して人を養ふ能はさるも食にありては食能養レ人亦能醫レ病と啻に確信し得るのみならす食能く人を長大し食能く人を壯健し食能く人を多壽するものなり然れども人生の食物たる萬代不易の齒形に準す可き資性あるに身外事物開化に随伴し一に依頼す可き食物に依頼せすして依頼す可からさる藥物に依頼する其情況たる恰も壁裏に柱を安するか如く服藥ありて身躰ありと物學的に思想を起すに至りしのみならす因襲の久しき習ひ性となりて食の恐る可からさるを怖れて藥の恐る可きを怖れさるに至りしは畢竟身外事物の開進に相伴ひ物質的文明の輸入せし結果にして即ち時運時勢の然らしむる所なりと云はさる可からす故に佛曰く實有之見は即ち顚倒之見なりと斯邊査曰く實躰に於ける絶對觀は其實躰の變化の為めに絶對たる能はさることありと古人亦曰く守レ常者衆人之見、知レ變者智者之見なりと宜哉斯道の人を得て其理其證を洞觀するに非されは争てか顚倒の見常人の見を免るゝを得んや
 (以上、初めの部分。濁点、句読点はありません)
平成26年3月25日 食養内科 勉強会資料

   ※食養内科勉強会は今回が最後になります。勉強会資料も最終号になります。

食養内科 長岡由憲