食養内科

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 双洋物産株式会社の季刊誌「薔薇」に連載された日野厚先生の文章を紹介します。


薔薇 NO.26・1982
食を見つめて(2)

生態学的栄養学に辿りつくまで
松井病院食養内科部長 日野厚

 前回は環境の中に生き生かされる人間の「賢さ」と「愚かさ」について触れた。人間が如何に智恵(多くは猿智恵であろうが)を誇(ほこ)り自然を征服して来たと独り合点しているとしても、所詮(しょせん)、自然環境の中に生き生かされているに過ぎまい。富裕な家の息子が、家の金を持出しては、金はいくらでも湧いて出てくるかのように、アブク銭のように浪費して廻りつつ、親の悪口を云って歩き、それで困ると、また親に縋(すが)りつけば何とかなるだろうと、もたれかかって行くという図が世の中には、よくあるようである。
 他家の問題の時には、「馬鹿息子」と感じても、自分自身のこととなると、案外、盲目的になってしまう。種々の公害問題も同根と云えよう。孫悟空が天空を駆け廻って来たと思っていたら、実は如来の手掌の内を飛び廻っていたに過ぎなかったという話と同類のことが、この世にはかなり満ち溢れているように思われる。
 私は11人兄弟の内、末から2人目であり、下へ行く程胃腸が弱かったが、私もその例外とならず、乳児期から胃腸が弱く、しばしば下痢をしていた。中学一年の夏から、下痢し易い傾向は、本格的に? 頑強となり、勉強の激しくなるに連れて、更に病状は悪化して行き、ますます神経質になって行き、それはまた下痢傾向助長へと繋がり、遂に休学せざるを得なくなった。療養をしてもしても病状は軽快せず、もはや、阿片系統の薬剤以外では、いかなる下痢止めも無効となり、その阿片剤も漸次増量しなければ目的を達せず、約三年間、阿片を一日も手放し得なくなったまま、全身状態も衰弱の一路を辿(たど)った。阿片を、一回服用し忘れただけで(服用し忘れたことも忘れていた)、半日で十数回も下痢する有りさまであった。
 また次第に強度の神経症に陥(おちい)って行った。医師は「私が医師になってから、君程に私の云うことを忠実に守る患者を見たことがない。」という程に、患者としては優等生であったらしいが、病状は漸次(ぜんじ)増悪して行く一方であり、生ある内に間違っても、再び床上に坐れるようになることはあるまいと思われ、今にも発狂してしまうのではないかと自ら思う状況に陥っていた。
 かくする内に三年半を経過した。もう少し、安らかな心境になって死を迎えたいと思い続け、そのための道を求め続けていたところ、断食修行にピタりと心が引きつけられた。事ここに到っては生やさしい方法では精神修養の効を挙げがたいであろうし、かつ、この方法は古来、ほとんど、すべての宗教でも修行法として取り入れられてきていると思われるから、恐らく相当に評価に値するだろうと思った。断食寮長・父母・兄・医師等の周囲の反対の中の理解にも助けられて、守り本尊のように、長年頼っていた医薬も一切縁切りにして遂に断食に踏み切ったのである。
 断食は一日延ばしに遂に10日に及んだ。ところが、さしもの、下痢は止まり神経症からも脱却していたのである。復食期に入り、生まれてから、その時まで、ほとんど食べたこともない三分搗米の御飯や、繊維の多い、ごぼう、れんこん、海草、葉菜類などを、それも腹一杯食べるようになっても下痢は置き忘れられていた。何という驚き!!唯もう、呆然とするのみであった。本人はもちろん両親も兄弟も、断食寮長やその家族の方々も、その他身近な人々もである。
 断食前には寮長も、私の断食には断呼、反対し続けられていた。「あまりに重症である、危険だ。死なれては困る」と。ところが、下痢が止まったのみならず、それ以外の十指に余る、諸疾患の症状もどこかに消え去っていた。少なくとも気にならぬ程になっていたのである。
 医療と云えば現代医学しか頭になく、かつ前述のように忠実に墨守(ぼくしゅ)していて諸病状が増悪の一路を辿(たど)り続けていたのに、当時の臨床医学者からは全く一顧だに与えられなかったとも云えそうな断食と、その後の「自然食」的食生活(世間では、しばしば「食養」という表現を使っていると思われる内容のもの)により、真に見事に、心身両面での健康回復の道を確実に驀(ばく)進し始めたのである。
 ここで私は考えた。かようなことは私に限って起こった例外的なことであるのか、その普遍性の程度は? という疑問である。そこで、それは自分自身の眼と耳で確かめるのが手取り早いと思い、以後三ヵ月間、断食寮に留まって、多数の患者の経過を観察し始めたが、私程の劇的効果は稀であるとしても、或る程度の病状好転はどうも珍しくないようだという結果になってしまった。
 ここで、これは医療、あるいは、人間としての歩みにおいては、その当時までのオーソドックスの医療のみに従い、あるいは物質的にのみ対策を考え、しかも、分析的にのみ考えるのでは、場合によっては大きな手落ちを生じる場合が少なからずありそうだということに気付いたのである。
 これが契機で、以後、「食養」のとりことなり、陰陽論に取りつかれ、近代栄養学を全く度外視した食生活が十数年続
いた。初めの内は、大体、順調に体質改善は展開して行き、あれ程、下痢専門であったのに、氷水をガブ飲みしても西瓜を食べても、筍・赤飯・天ぷらを食べても下痢せず、また約3年間、咽頭痛のために一夜として安眠出来なかったのに、以来、咽頭痛は長年忘れ去ることになった。神経症も消失し、記億力も増強し、取越苦労はなくなり肚(はら)が坐り、達観し得るようになり、判断力は著しくよくなったと思われた。
 ところが間もなく私の臥床期~復学期にかけて、「母の愛」で看護し続けてくれた母が、病に倒れ、私の信じる「食養」に則った食事療法を、その道の医師の診療の下に守らせ続けたが、約1ヵ月半後に死去してしまった。
 これは真に茫然自失する程のショックであった。一体どうすればよかったのか? と。絶対に正しいと思って行なったのに。また、私は、その後、3~4年して劇症肝炎になったり、次第に頑強な慢性湿疹が出現し始めたり、甚だしく短気になったり、ということになって来た。
「食養的陰陽論」の諸先輩に機会あるたびに、私はどのように食べればよいかについて教えを乞うた。ほとんど常に「判らない」という返事であった。
 私以外でも、「食養」をかなり忠実に守り続けていたと思われる人が、短期では成績がよいが、長期では必ずしも、そうではないという事例を稀ならず、私は見聞し続けることになった。私は全く困惑してしまった。陰陽論は万物の指導原理であり、「食養」は人の道であると教えられ信じ込んでいたのに、これは、一体何事か!!
 ここで主観や経験のみでは凡人には真の解決策が容易に見つけがたいことに気付き、私は医師となってからも、この私に課せられた重大な問題に取組むためには、医学研究機関に残り、客観的に事態を見つめ続ける姿勢を身につけると共に、科学的~医学的思考をも身を以て味わおうとし続けた。
 それまでは私の残りの生涯を「食養」と「断食」の研究に捧げる覚悟で断乎としてそれまでは進んで来たが、目的地は遥(はる)か遥か彼方であるのに、羅針(らしん)盤を見るすべが判らなくなったのである。私にとり、これは正に、最大の苦しみとなり続けた。
 以後、十数年、「食養」を人に説き得なくなり、沈黙を守り続けざるを得なかった。しかし、自分自身では、暗中(あんちゅう)模索(もさく)式に、当時、自分で考えられる限りの種々の食条件を、それぞれ、かなり長期間実行し続け、その間、毎日毎日の自已の健康状態を出来る限り詳細に観察し続け、それらの食条件の、その時々の自己の健康状態、生活状態での適不適を察知しようと努力し続けたのである。また、諸先輩医師~指導者の指導内容とその指導を受けている患者の病状の推移とを対比し続け(現代医学的検査成績の裏付けをも、なるべく取るようにしつつ)。検討し思索(しさく)し続けたのである。
 かくして、今、私の説いている「生態学的栄養学」に基づく食生活に頼る以外に、凡人が今、拠る羅針盤~磁石はなさそうであるということに到達したのである。
 優れた人の道ではないかも知れないが、暗愚(あんぐ)者は、知で以ては真実に到達しがたいという心境である。これは正に法(ほう)然(ねん)・親鸞(しんらん)の道とも云えるのかも知れない(怒られるかな?)。易(い)行(ぎょう)道(どう)と思われる。わが計(はか)らいを捨て、真裸になっての下坐(げざ)の行(ぎょう)とでも云おうか。捉(とら)われを否定するという捉われから脱(だっ)却(きゃく)することも重要なのであろう。唯(ただ)々大自然の運行(うんこう)、絡(から)み合いに眼を見張ってという次第である。
次の歎異抄の一節は私の約40年、常に噛(か)みしめているところである。

 「聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、………火宅(かたく)無常(むじょう)の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごとまことあるなきに……」

 以上、日野厚先生の文章を紹介しました。
平成26年5月10日
文責 長岡由憲