食養内科

3 アトピー性皮膚炎とガンが多い理由    <<印刷はこちらから

  平成元年から昨年までの25年間に来院された初診患者の主病名を調べたところ、上位の10位までの結果が表1のようになりました。総数が5727人ですが、これを円グラフにすると図1のようになります。
 アトピー性皮膚炎とがんで約半数になりました。この二つの疾患がこんなに多かったことは自分としても意外な結果でした。
 なぜこの二つの疾患が多くなったかと言うと、それぞれに理由があります。どちらも食養内科を紹介してくれる人がいて、その人のおかげで大勢の人が来院されたのです。
 アトピー性皮膚炎は平成アトピーネットワークの森村さんが紹介してくれました。森村さんはアトピーネットワークの会員を多くの医者に紹介した結果、松井病院食養内科の治療効果を高く評価されたのです。
 がんは「いずみの会」の中山さんが紹介してくれました。中山さんは胃癌になって手術をする前に食養内科に入院したのですが、食養内科の食事はそれまで自分が学習した食事療法とは違っていて、がんの体質改善に役立つと判断され、「いずみの会」の会長になってから、多くの会員を紹介してくれました。
 中山さんは4冊の本を書かれたのですが、その中に食養内科のことが書いてあるために、その本を読んで多くの人が来院
されました。
 アトピー性皮膚炎は以前にテレビで紹介されたこともあり、当科に通院していた患者さんの紹介もあって前から多かった病気です。
 この二つの病気は西洋医学の治療を行っても、希望が見えてこないのです。食養内科は西洋医学も東洋医学も行っていますが、食事療法を併用することによって体の基礎作りを行っている感じです。体の基礎作りを行うと、治療の効果も現れて慢性的な病気が改善して行くように思います。
 私の仕事は日野厚先生が提唱された生態学的栄養学に基づく食生活を指導することですが、生態学的栄養学というのは固定した食事がある訳ではないので、病歴を聴き、診察した後に方針が出てくるのです。具体的な健康食は入院患者に提供する食事があるので、外来で治療効果が出なければ入院して勉強してもらいました。
 生態学的栄養学についてもう少し説明すると、この栄養学は玄米菜食ではないのです。中山武さんは「いずみの会式玄米菜食」という言葉を作っていましたが、「いずみの会式玄米菜食」というのは、玄米菜食ではないという意味なのです。
 玄米菜食という内容は、桜沢如一が広めたマクロビオティックから始まったものだと思います。
 日野先生は、マクロビオティックの食養生で、下痢体質が改善され健康を回復しましたが、マクロビオティックを続けるうちに今度は、別の方面で健康を害するようになったのです。
健康を害しても、始めの頃はやり方が足りないだろうと思って、もっと厳しくして行ったのです。その結果、病状はもっとひどくなり、どうしようもなくなった時、マクロビオティックの問題に気が付いたのです。
 それでたどり着いた所が生態学的栄養学ですが、これが実に難しい学問で、私なりに理解できたと思うまでに何年もかかりました。結論的にいうと、決まった健康食は無いと言うのですから、内容が深いわけです。
 玄米が良いとか悪いと言うことは出来なくて、玄米が良い人もいれば、玄米が悪い人もいるというわけです。
 食品の価値は食べる人との関係で生じることですから、一つの食品が良いとか悪いとか、言うことは難しいのです。
 玄米菜食は桜沢如一が言い始めたことで、食養の理論を作った石塚左玄が主張した内容とは違っています。明治の頃、ヨーロッパでは菜食主義(ベジタリアン)が起こり、広まっていたようですが、石塚は穀物主義を主張しているので、これを英語にするとシリアリアンであると言っています。
 石塚によると人類は歯牙の形状から穀物を主に食べる動物であると考え、穀食主義を唱えたのです。肉食についてはナトリウム塩とカリウム塩とのバランスを考えて、多く食べることは適切ではないが、少量食べる事は問題ないと述べています。
 日本では大昔、天武天皇が肉食禁止の詔を出しましたが、それによると、牛馬鶏猿犬の肉を食べることを禁じたので、それ以外の肉については禁止していないのです。この禁令は手に入りやすい動物の肉を禁じたので、手に入りにくい動物については禁止しなかったのです。この禁令の目的は肉類の多食を戒めたという天皇の計らいであったと石塚は述べています。
 食養の流れから行くと、創始者の石塚左玄は肉食を禁止していなかったのですが、後継者の一人である桜沢如一は肉類、魚類は一切禁止というような食養生を勧め、それが世界中に広められたため、玄米食と言うと菜食が一般的のような感じになりました。
 桜沢如一の後継者の一人である日野厚は肉禁、魚禁という考えをなくしていますから、本来の食養の姿に帰ったという感じです。


平成26年7月29日
著作 長岡由憲