日野式食養生

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 食養内科の創始者である日野 厚は大正6年、京都市で六男として生まれた。父親は同志社大学の宗教学の教授である。宗教はキリスト教で、家は洋風の生活を取り入れていた。その頃としては砂糖の使用量がかなり多かった。

 日野が胎児の時、自宅が何者かに放火され兄達が何人か焼死した。犯人は父親の寝ている部屋をねらったが、その日は子供が父親の部屋で寝ていた。その頃、大学で勢力争いがあったと言われている。
 日野は生来虚弱で下痢体質であった。中学の頃から下痢が激しくなり、3年半休学する。医師の指示に極めて忠実に療養生活を送ったが、症状は悪くなり、現代医学の治療をあきらめて、民間の食事療法を行い、最後に死ぬ気で断食を行った。
 大阪断食寮で十日間と七日間の断食を行った。体重は30kgまで痩せたが、精神的転換を見事に遂げ、肉体の種々の症状が消失した。
 この経験から、日野は断食や食養生を医学に取り入れようと決意し、医者になり、その研究をライフワークとした。

 日野は食養を桜沢如一に学んだ。桜沢如一の食養はマクロビオティックといって世界に知られている。日野は桜沢式の食養を忠実に続けるうちに、自分の体調がおかしくなっていった。皮膚病が出たり、血尿が出たりしてきた。又、食養をやっている子供に死者が出ることも多かった。これは食養に問題があると思い、桜沢式を離れ、東邦医大で食事療法の研究を始めた。
 日野は食養という言葉をやめて、特殊食餌療法と名前を変えた。日野は研究の場所を北品川病院に変え、特殊食餌療法を生態学的栄養学に基づく食生活と変えた。日野式食養生の20カ条は長年の研究の中から、日本に住む日本人が行う食養生として、これだけは確かであろうと思われる、具体的な実行条件を一つ一つ作っていった結果生まれたものである。 昭和53年、日野はグループの職員と入院患者をつれて、埼玉の病院から松井病院にやって来た。松井病院で食養内科という名前を作った。
 平成元年、日野は腎臓癌が再発してなくなった。

2000年 4月 19日 (長岡)

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